第二十一話:線を引く者
翌日の昼休み。
中庭のベンチに座った神谷は、七瀬がいつもより静かなことに気づいた。
「昨日のこと、まだ気にしてる?」
「少しね」
七瀬は素直に答えた。
昨日、三年の女子学生に『奪っても問題ないよね』と言われたとき、思わず神谷の手を強く引いてしまった。
「私、あの人に腹が立った。でも神谷くんの気持ちを聞く前に、連れて行っちゃった」
「助かったのも本当だよ」
「それでも、勝手に決めたのはよくなかった」
神谷は七瀬を見た。
いつもは理屈で切り返す彼女が、珍しく言葉を選んでいる。
「……俺も、もっと早く自分で言えばよかった」
そのとき、通路の向こうに昨日の女子学生が現れた。
今日は一人だった。
「神谷くん、少し話せる?」
神谷の肩が強張る。
七瀬はすぐに立ち上がらなかった。
「話したい?」
「……できれば断りたい。でも、昨日の続きなら、はっきり言っておきたい」
「じゃあ、ここで話そう。離れた場所へ行く必要はないよ」
神谷は頷いた。
「ここなら聞きます。ただ、嫌だと言ったら終わりにしてください」
女子学生は少し驚いた顔をした。
「分かった。単刀直入に言うね」
彼女は七瀬を一瞥した。
「七瀬さんと一緒にいるの、やめたほうがいいと思う」
「……どうして?」
「だって噂ばっかり増えてるし、あの人は神谷くんのこと好きじゃないって言ったじゃん。私ならもっと大切にできる」
神谷は息を吐いた。
「気持ちは聞いた。でも、俺が誰と一緒にいるかは俺が決める」
「本当にそれでいいの?」
女子学生が一歩近づく。
「私のほうが、きっと――」
「そこで止まってください」
神谷の声が強くなった。
「これ以上近づかないで。俺はあなたと付き合うつもりはありません」
女子学生の顔が曇る。
「……七瀬さんがいるから?」
「違う。俺自身の返事だ」
神谷は一度、七瀬を見た。
「七瀬さんに助けられてきたのは事実だ。でも、俺の返事を代わりに決めてもらうつもりはない」
七瀬の胸が静かに熱くなった。
(ちゃんと言えた)
その一方で、女子学生の視線はまだ神谷から離れない。
「でも、私、神谷くんのためを思って……」
「その気持ちが本当でも、断られたら止まってほしい」
神谷は繰り返した。
「俺を心配してくれるなら、俺の意思も尊重してください」
沈黙が落ちた。
女子学生は唇を噛み、七瀬を見た。
「……あなたは何も言わないの?」
七瀬は立ち上がった。
「言うよ」
神谷が少し驚く。
七瀬は女子学生の前に立つのではなく、神谷の隣に並んだ。
「私は、神谷くんが断ったことを尊重してほしい」
「でも、あなた、好きじゃないんでしょ?」
昨日の自分の言葉が、胸に刺さった。
『好きとかじゃない。
必要だから一緒にいるだけ』
あのときは、感情に名前をつけるのが怖かった。
七瀬はゆっくり息を吸った。
「……昨日の言い方は、よくなかった」
女子学生が目を細める。
「じゃあ、好きなの?」
神谷までこちらを見た。
(今ここで、答えを急がされる必要はない)
七瀬は首を横に振った。
「その答えを、あなたに決めてもらうつもりはないよ」
「逃げるんだ」
「違う。私の気持ちは私が決める。神谷くんの気持ちは神谷くんが決める」
七瀬は言葉を続けた。
「それと、私は神谷くんのそばにいることを自分で選んでる。能力がどうとか、噂がどうとかだけじゃない」
神谷が息を呑む。
「七瀬さん……」
「だから、私を理由に神谷くんの返事を無視しないで」
女子学生は何か言い返そうとして、口を閉じた。
やがて視線を落とす。
「……分かった。今日は帰る」
「ありがとう」と神谷が答えた。
女子学生は背を向けた。
数歩進んでから、立ち止まる。
「でも、簡単には諦められないかも」
神谷は表情を変えずに言った。
「気持ちは自由です。でも、行動には線を引いてください」
女子学生は振り返らず、そのまま去った。
二人の間に、ようやく静けさが戻った。
七瀬はベンチに座り直す。
「……緊張した」
「七瀬さんでも?」
「するよ。私は無敵じゃないから」
神谷は少し笑った。
「助かった。ありがとう」
「今回は、助けるっていうより……私の話もしたかった」
「自分で選んでる、って?」
「うん」
七瀬は膝の上で指を組んだ。
「私が嫌なら離れる。神谷くんが嫌なら、手も繋がない。でも、今はここにいたい」
神谷はすぐに返事ができなかった。
「……俺も、七瀬さんといると落ち着く」
七瀬が少し笑う。
「それ、能力が止まるから?」
「最初はそうだった。でも、今はそれだけじゃないと思う」
風が吹き、木の葉が二人の足元を転がった。
七瀬はその葉を見つめながら言った。
「じゃあ、これからもちゃんと聞こう。勝手に決めないで」
「うん。お互いに」
七瀬が手を差し出す。
「握手?」
「約束の確認」
神谷は笑って、その手を握った。
胸の奥の熱が静まる。
けれど、別のところが少しだけ騒がしかった。
(……これは、能力のせいじゃない)
七瀬も同じことを考えていた。
誰かを守るために、誰かの意思を奪ってはいけない。
そして、誰かの隣にいることは、命令でも義務でもなく、自分で選んでいい。
七瀬はその当たり前のことを、今日ようやく自分の言葉にできた。




