安芸高田
2029年7月2日夜
ガソリンスタンドで燃料を並々と満たしたおかげで、ジムニーの燃料計の針は一番右側でどっしりと安定している。これなら俺がどれだけ長風呂をしようが、車内のエルヴィス、ボス、こまの命綱である冷房が止まる心配はない。
「少し留守にするぞ。いい子にしてろよ」
そう声をかけると、三匹は冷気の吹き出し口に鼻を向けたまま、すでにうとうとと船を漕ぎ始めていた。俺はドアを厳重にロックし、懐かしい木造の家並みが続く『神楽門前湯治村』の敷地へと歩みを進めた。
かつて現役時代、会社の社員旅行で一度だけ訪れたことのある温泉だ。
暖簾をくぐり、湯船に身を沈めた瞬間、張り詰めていた身体の芯がふわりと解き放たれる感覚があった。天然ラドンの豊かなお湯が、皮膚からじんわりと染み込んでいく。あの頃は組織のしがらみや事件の処理に追われ、せっかくの名湯も味わう余裕がなかったが、退職し、バディたちと放浪の旅を続ける今、ようやくこの湯の本当の有り難みがわかる気がした。
湯上がりの火照った身体のまま、木造のテラスにある喫煙所に腰を下ろす。
ポケットから取り出したマルボロの赤に火をつけると、紫煙が夜の山あいの澄んだ空気に吸い込まれていった。肺をひきしめる重いヤニの刺激が、温泉効果と相まって極上の弛緩をもたらしてくれる。
火を消し、浴衣姿の観光客が行き交うノスタルジックな売店を覗いた。
並んでいる地元の特産品を眺めているうち、ふと目に留まったのが『ハブ茶』の茶葉だった。この広島の山間部では、昔から親しまれている定番の健康茶だ。今回の旅にも、マイ定番である急須と小型の湯沸かし器一式を車載してある。夜風の中で淹れるハブ茶の香ばしさを想像し、迷わず一袋を手に取った。
さらに、パックに詰められた『鯖の押し寿司』も購入する。山深いこの地域において、かつて山陰から運ばれた塩鯖を使った押し寿司は、ハレの日のごちそうだ。夜食、あるいは明日の朝食にちょうどいい。
仕上げは、敷地内の食事処での晩飯だ。
お目当ての『夜叉うどん』が運ばれてくる。おどろおどろしい神楽の鬼夜叉にちなんだその一杯は、文字通りスープが真っ赤に染まっていた。
箸を割り、一気にすする。
「――っ、ぶはっ」
喉の粘膜を直撃する唐辛子とラー油の強烈な辛さに、思わず鼻の頭から汗が噴き出した。だが、ただ辛いだけじゃない。ベースにある味噌出汁の深いコクと、たっぷり入った豚肉の甘み、ネギのシャキシャキとした旨味が、激辛の向こう側で完璧な調和を保っている。
辛さが身体の奥底に染み渡る。どっと吹き出す汗さえも、湯上がりの身体にはどこか心地よかった。
額をタオルで拭いながらジムニーへと戻り、キーを開けて車内に入る。
「フゴー……グズー……」
ドアを開けた瞬間、冷気とともに迎えてくれたのは、地鳴りのような三つ重なりの大いびきだった。
腹を出し、四肢を投げ出して爆睡しているエルヴィスたちの姿に、俺は思わず苦笑した。買ってきたハブ茶と鯖寿司をラゲッジスペースに収め、俺もシートをリクライニングさせる。
満タンのガソリンが刻む静かなアイドリング音と、バディたちのいびきをBGMに、安芸高田の夜は静かに更けていった。




