野呂山
2029年4月3日
俺はジムニーのハンドルを握り、呉の街を東へ、瀬戸内海を見下ろす野呂山を目指して山道を登った。
呉に長年暮らしていたにもかかわらず、ここへ来るのは初めてだった。会社と自宅を往復するだけの生活では、わざわざ立ち寄る余裕もなかったのだ。
ツーリングの聖地として知られる「さざなみスカイライン」を登りきると、山頂のパーキングは春の風を浴びる色とりどりのバイクで溢れかえっていた。
ジムニーを降り、ボス、エルヴィス、こまを連れて山頂の展望台へと歩く。
眼下に広がる、瀬戸内海の多島美。三匹の鼻ペチャたちは、慣れない山の澄んだ空気に鼻をヒクヒクとさせながら、興味深そうに周囲を見渡していた。
そんな俺たちの姿に、革ジャンを着た一人の年配のライダーが、笑みを浮かべて声をかけてきた。
「いい犬たちですね。ちょっと写真を撮ってもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
彼が熱心にカメラを構えると、ボスとエルヴィス、こまが奇跡的に三匹並んでレンズを見つめた。カシャ、と心地よいシャッター音が響く。写真のお礼にと、彼から缶コーヒーを一本ご馳走になり、短い大人の会話を交わして別れた。
野呂山を後にしようと、ジムニーへ戻る。
運転席のドアを開けようとした時、先ほどのライダーがヘルメットを抱えながら、再び声をかけてきた。
「これから、どちらまで行かれるんですか?」
その問いに、俺はバックミラーに映る、後部座席で早くも満足げに寝息を立て始めた三匹を見やり、迷わず答えた。
「ひたすら、東に進みます」
「そうですか。いい旅を。お気をつけて」
「ありがとうございます」
大した会話ではない。だが、見知らぬ誰かに旅の無事を願われたことが、今の俺には妙に胸に染みた。
キーを回してエンジンをかけ、俺は呉の街を、そしてこれまでの五十三年間の過去を背にした。
アクセルを踏み込み、ジムニーが坂を下るたび、かつて自分を縛り付けていた透明な鎖が、一つ、また一つとほどけていくのを感じる。
おっさんと三匹の、長い長い「東への大冒険」が、今ここに始まった。




