嬉野温泉〜佐世保
2027年4月12日
朝、宿の客室で嬉野茶を最後の一滴まで啜り、俺は覚悟を決めてスマートフォンの電源を入れた。
液晶のバックライトが灯り、浮かび上がったのは、直属の課長からの短いメールだった。
『有給として処理しました。ゆっくり休んでください。みんな安村くんを待ってます』
視界が、急激に歪んだ。目頭が熱くなり、ポタポタと畳に涙が落ちていく。
真面目なことだけを拠り所に、二十年以上尽くしてきた会社だった。組織の歯車に過ぎないと思っていた場所は、俺を切り捨てるのではなく、黙って後ろ盾となり、戻るための逃げ道を作ってくれていたのだ。
家を出てからずっと胃の奥にこびりついていた冷たい痛みが、嘘のように消えていくのを感じた。
救われた心を乗せて、ジムニーは嬉野温泉を出発し、長崎の佐世保へと向かった。
米軍基地の巨大な艦船が浮かぶ、エキゾチックな港町をすり抜け、九十九島へとジムニーを走らせる。九十九島とは一つの島の名ではなく、複雑に入り組んだリアス式海岸に点在する、文字通り無数の島々の総称だ。
車を停め、ボスをスリングにしっかりと抱えて、息を切らしながら展望台へと登る。
眼下に広がった深い青と、そこに浮かぶ密な緑の島々のコントラストは、息を呑むほどに美しかった。心地よい潮風を受けながら、腕の中のボスが小さく鼻を鳴らす。世界は、こんなにも広くて綺麗だった。
駐車場へ戻り、近くの売店で出来立ての佐世保バーガーを買い求めた。
さすがに玉ねぎやスパイスの入った肉は盛り付けられないが、香ばしい肉汁が少しだけ染みたバンズの端を小さくちぎり、「お前もこれくらいならな」と足元のボスに差し出した。
差し出された小麦色のひとかけらは、ボスの大きな口の中に一瞬で消えた。
満足そうに舌をペロリと出した相棒を見つめながら、俺はハンバーガーを口に放り込んだ。
胸を突くソースの美味さが、生きている実感をさらに強く味合わせてくれた。




