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その4

新しい水槽に住み始めてから一週間ほどが過ぎた。


俺はそれなりに快適な生活を送っていた。


砂利の感触にも慣れたし、ぶくぶくと空気を吐き出す機械の音も気にならなくなった。


そして同じ時間に現れる彼女の顔を見るのも毎日の習慣になっていった。


「おはよう」


顔を洗ったばかりらしい彼女が水槽を覗き込む。

まだ少し寝癖が残っている。


人間は面白い。

外ではきっとちゃんとしているのだろうが、家の中では隙だらけだ。


「遅刻するー!!」


そう言いながら慌ただしく家を飛び出していく。


そして夜になると帰ってくる。


「ただいま」


誰もいない部屋に向かって。


最初は不思議だった。


だが最近は、その言葉が聞こえると少し安心する自分がいる。


帰ってきた。


今日も無事だった。

そんなことを思うようになっていた。


ある日の夕方。


彼女は学校から帰ってくると、制服のまま水槽の前にしゃがみ込んだ。


「ねえ」


俺を見る。


「金魚って人の顔覚えるらしいね」


覚える。


少なくとも俺は覚えている。


餌をくれる人間。

水を換えてくれる人間。

それくらいは当然分かる。

だが彼女はそれだけじゃない。


足音でも分かる。

声でも分かる。

玄関の扉が開いた瞬間に分かる。


俺がそう思っていることを彼女は知らない。


「覚えてくれてるのかな」


そう言ってガラス越しに指を近付ける。

俺はなんとなくその指を追いかけた。


「やっぱり覚えてる?」


彼女が少し嬉しそうに笑った。

偶然だったかもしれない。

けれど、その笑顔を見るのは嫌じゃなかった。



それから彼女はよく話をするようになった。


学校のことや友達のこと

好きな映画のこと。

苦手な先生のこと。そして時々家族のこと。


俺には分からない話も多かったが彼女の声を聞いているとなんとなく気持ちは伝わってくる。


嬉しい時は声が軽い。

落ち込んでいる時は少し小さい。

怒っている時は早口になる。


人間は声だけでもずいぶん多くのことを語る。


「今日ね…」


ある夜、彼女は頬杖をついた。


「発表で失敗しちゃったんだよね」

ため息をつく。


「別に大したことじゃないんだけどさ」


しばらく黙り込む。


「なんか、自分だけ上手くできない気がして」


俺は何も言えない。

言葉を持たない。

だからただ近くを泳ぐ。


水草の陰から出てきてガラスの前をゆっくり横切る。


すると彼女が少し笑った。


「聞いてくれてありがと」


いや…。

実際には何もしていない。


だがその言葉を聞いた時、不思議と胸の奥が温かくなった。



そんな日々が続いた頃。

小さな事件が起きた。


季節は梅雨。

夕方から激しい雨が降っていた。

窓ガラスを叩く雨音。

遠くで鳴る雷。


嫌な予感はしていた。


次の瞬間…


部屋の灯りが消えた。

フィルターの音も止まる。


ぶくぶくという空気の音もなくなる。

突然の静寂。


停電だった。


水槽の中はすぐに暗くなった。

外ではまだ雷が鳴っている。


時間だけが過ぎていく。



しばらくして玄関が勢いよく開いた。


「うそ……停電!?」


彼女だった。


服も髪も雨でびしょ濡れになっている。

だが、彼女は自分のことより先に水槽へ駆け寄った。

スマートフォンのライトが照らされる。

白い光の向こうに彼女の顔が見えた。


「よかった……元気だ」


心底ほっとしたような声だった。

俺は水の中でゆっくり尾ビレを揺らした。



しかし彼女は安心しなかった。


すぐに何かを調べ始める。


「停電……金魚……酸欠……」


顔色が変わった。


「まずいかも」


そう呟くと、また雨の中へ飛び出していった。



一時間ほど経った頃。

彼女は大きな袋を抱えて帰ってきた。

息を切らしながら。

服はさらに濡れている。


「間に合った……」


袋の中から取り出したのは電池式のエアポンプだった。説明書を慌てて読みながら組み立てる。

何度か手順を間違えた…それでも必死だった。


やがて小さな泡が水槽の中へ送り込まれる。

ぽこぽこと空気が上がる。

いつもの景色が戻ってきた。


「これで大丈夫……だよね?」


彼女は水槽の前に座り込んだ。

疲れたように笑う。

そのまましばらく俺を見つめていた。


俺も彼女を見ていた。


屋台にいた頃は思っていた。

人間なんて皆同じだと。

気まぐれで俺たちを掬い、飽きたら忘れる。


そんな生き物だと。


だけど、どうやら違うらしい。

少なくとも彼女は違う。


その夜、雨はいつの間にか止んでいた。

雲の切れ間から月が見える。

雨はいつの間にか止んでいた。

雲の切れ間から月が見える、静かな夜だった。


月明かりが窓から差し込み、水槽の水面を銀色に照らしている。


俺はその光をぼんやり眺めていた。


なぜだろう。


胸の奥が少しだけざわつく。


何かが始まろうとしているような。


そんな不思議な感覚だった。


もちろん、その時の俺は知る由もない。


数か月後の満月の夜。


その月が、俺たちの運命を大きく変えることになるなんて。


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