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その5

満月の夜


停電の夜から、2週間ほどが過ぎた。


六月も終わりに近づき、蒸し暑い日が続いていた。彼女は最近、忙しそうだった。朝は早く出ていき、帰りも遅い。


それでも水槽の前には、必ず立ち寄る。


「おはよう」「行ってきます」「ただいま」「おやすみ」


その言葉だけは、欠かさなかった。


だが以前のように長話をすることは少なくなっていた。疲れているのだろう。夕飯を食べるとすぐ机に向かい、夜遅くまで何かをしている。俺は水槽の中から、そんな様子をただ眺めていた。


ある夜、彼女は机に向かったまま眠ってしまった。手にはシャーペン。開いたノートには、びっしりと文字が並んでいる。


「……風邪ひくぞ」


もちろん、聞こえるはずもない。


彼女は小さく寝息を立てていた。俺は何となく落ち着かなかった。ガラスの向こうにいる彼女を見ていると、胸のあたりが妙にざわついた。魚に胸があるのかは知らないが、それ以外に言いようがなかった。


結局、彼女はその夜、明け方まで机に突っ伏したままだった。


翌日。


彼女は帰宅するなりベッドへ倒れ込んだ。顔色が悪い。いつもなら着替えるのにその気力もないらしい。しばらくして、体温計を取り出した。


ピッ。


短い電子音。表示を見た彼女が、顔をしかめる。


「39℃……」


数字の意味は分からない。だが良くないのだろうということは、彼女の表情を見れば十分だった。彼女は薬を飲み、水だけ口にして眠った。


そのまま夜になった。


起きない…いつものように水槽を覗き込むこともない。部屋は静まり返っていた。


次の日も、その次の日も。


彼女はほとんどベッドから動かなかった。

時々目を覚まして水を飲み、そしてまた眠る。

それを繰り返している。


俺は何もできなかった。


ただ泳ぐだけ。ただ見ているだけ。


停電の夜、彼女は雨の中を走った。俺を助けるために。濡れながら、息を切らしながら、必死になって。


それなのに今、俺には何もできない。


水槽の中をぐるりと回るたびに、そのことが頭から離れなかった。彼女が苦しんでいる。俺はここにいる。ガラス一枚、手を伸ばせば届く距離に。それでも、届かない。


その夜は満月だった。


雲一つない空。窓から差し込む月明かりが、部屋を青白く照らしている。彼女は苦しそうに眠っていた。額には汗。呼吸も荒い。


静かな部屋だった。


いつもなら誰かが「大丈夫?」と声をかける場面だろう。だが今夜は誰もいない。俺はベッドの方を見た。ただ見ているしかなかった。


そのことが、悔しかった。


こんな気持ちは初めてだった。餌が欲しいわけでもない。広い水槽が欲しいわけでもない。ただ一つ、助けたい。傍に行きたい。大丈夫だと伝えたい。それだけだった。それだけのことが、どうしてもできなかった。


月が水槽を照らしていた。


銀色の光が水面に落ちる。揺れる。広がる。まるで月が水の中へ溶けていくみたいだった。


その光を見ているうちに、胸の奥が熱くなった。


熱い。苦しい。だが、嫌ではなかった。何かが溢れてくる。心臓が早鐘のように鳴り、体が光に包まれていく。水槽の中が眩しくなった。俺は思わず泳ごうとした。


しかし尾びれが動かない。


代わりに、別の何かが動いた。


長い。細い。見慣れない。


腕だった。


水面が大きく揺れて、世界がひっくり返る。息が苦しい。水が重い。体が沈む——いや、浮かぶ。何も分からない。分からなくていい。


ただ、彼女のところへ行かなければ。


その思いだけがあった。


気が付くと、俺は水槽の外にいた。


びしょ濡れの床。震える体。見たこともない手足。


そして目の前には、ベッド。眠っている彼女。


俺はふらつきながら立ち上がった。うまく歩けない。それでも一歩ずつ、彼女の傍へ進む。


月明かりが二人を照らしていた。


彼女はまだ眠っている。俺は震える手を伸ばした。そして——初めて。魚ではない声で、呟いた。


「……大丈夫か」


その声は、自分でも驚くほど掠れていた。


けれど確かに、俺の言葉だった。


満月は静かに輝いている。まるでその願いを、ずっと前から聞き届けていたかのように。


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