メソリア派の台頭
第35話
メソリア派の台頭
戦争は終わった。
しかし、その終わりを祝う者はほとんどいなかった。
ウラニス7では各地の集落が疲弊し、多くの民が飢餓と窮乏に苦しんでいた。
ハドラリアー軍による侵略は停止したものの、戦後条約によって民のメレピンは制限され、感覚の均衡が大きく崩れていた。
媒覚の均衡変化である。
空腹ではないのに飢えを感じる。
十分に眠っているのに疲労が抜けない。
不安や焦燥だけが際限なく膨れ上がる。
精神そのものが静かに蝕まれていた。
そのような状況下で、ヒュラとネラが統括する村だけは比較的安定を保っていた。
二人は食料の管理や警備体制の整備を徹底し、周辺集落からも頼られる存在となっていたのである。
だが、その平穏は長くは続かない。
戦争終結から一週間。
ヒュラは、食料輸送の護衛任務として、ナーク隊と共に郊外の集落へ向かっていた。
集落へ近付くにつれ、人影は消えていく。
畑は荒れ、家々は窓が割れたまま放置されている。
やがて、一軒の家から泣き声が聞こえた。
中には幼い兄妹だけがいた。
「お母さんは?」
ヒュラが尋ねる。
兄は黙って奥の部屋を指差した。
部屋には毛布を掛けられた二人の遺体。
机には一枚の紙だけが残されていた。
「生きてください。」
ネラは何も言えず目を伏せる。
外へ出ると、荷車を引いた数十人の集団が静かに村へ入ってきた。
灰色の外套をまとい、胸には見慣れない紋章。
彼らは食料や薬を配り始める。
子供には毛布を掛け、老人を荷車へ乗せる。
一見すれば救世主だった。
「メソリア……」
ナークが低く呟く。
「知ってるんですか?」
「最近急激に勢力を伸ばしている宗教団体だ。戦災地を巡って救援活動を続けている」
代表らしき男は柔らかな笑みを浮かべ、民へ語りかける。
「苦しみは終わります」
「世界は間違っています」
「新しい秩序が、皆さんを救います。」
民衆は誰も反論しなかった。
空腹の子供がパンを受け取る。
老人は涙を流しながら手を合わせる。
ヒュラは違和感を覚える。
「……いい人たちじゃないんですか?」
ナークは静かに首を振る。
「救済は本物だ。だから厄介なんだ」
「飢えた人間は、まず飯をくれた者を信じる」
「その後で思想を受け入れる」
離れ際、メソリアの青年がヒュラへ微笑んだ。
「あなたも苦しそうですね」
「必要になったら、いつでも私たちのところへ。」
その笑顔は優しかった。
だが、その瞳だけは底知れない闇を宿していた。ヒュラは無意識に背筋へ冷たいものが走るのを感じた。
遠ざかる荷車の後ろには、新たに十数人の村人が静かについて歩いていた。
故郷を捨て、家族を失い、希望だけを求めて。
その光景を見送りながらナークは呟く。
「……戦争は終わった。」
「だが、ここから始まる戦いの方が、ずっと長い。」
戦争が終わり、人々が飢えと不安に喘ぐ中、メソリア教徒たちは静かに村へ入り込んできた。
彼らは武器を持たない。
代わりに、白い布と小さな薬瓶を携えていた。
日が沈む頃になると、広場の中央へ集まり、輪を作って座る。
やがて一人の司祭が両手を空へ掲げた。
「苦しみは祝福である」
信徒たちは一斉に復唱する。
「苦しみは祝福である」
「欠乏は浄化である」
「欠乏は浄化である」
「媒覚の揺らぎは、メソリアの導きである」
その言葉が繰り返されるたびに、信徒たちの表情は恍惚としていった。
儀式の終盤、司祭は薬瓶の栓を抜く。
中には淡い青色の液体が入っていた。
信徒たちはそれを聖薬と呼んだ。
一人ずつ口に含み、祈りを捧げる。
摂取した者は涙を流し、笑い、あるいは地面に額を擦りつけながら神への感謝を口にする。
司祭は語る。
「飢えを恐れるな」
「渇きを恐れるな」
「感覚の苦痛を拒むな」
「それはメソリアが与える試練であり、選ばれし者への階である」
苦しみに耐えられなくなった者ほど、その言葉に救いを求めた。
だからこそ、終戦後の混乱は彼らにとって絶好の布教の機会だった。
失うものがなくなった者は、希望よりも救済を求める。
そして救済を求める者は、しばしば最初に差し出された手を掴んでしまうのである。
ある日、見回りに出ていたネラは村外れで若い男を呼び止めた。
男は震える手で小瓶を握りしめていた。
「何を飲もうとしている」
ネラが問いかける。
男は怯えながら答えた。
「これを飲めば楽になるって……眠れるようになるって……」
瓶の中には青白い液体が揺れていた。
ネラは即座に瓶を取り上げる。
成分を確認すると、神経作用の強い危険薬物だった。
「誰から受け取った?」
男は森の方角を指差した。
その日の夜。
ヒュラとネラは数名の村人を伴い、密売人の潜伏場所を突き止める。
粗末な小屋の中では数人の商人が大量の薬品を保管していた。
拘束された商人は抵抗することなく笑っていた。
「俺達は売っていただけだ」
「命令したのはメソリア教徒だ」
その言葉に場の空気が凍り付く。
メソリア。
近年急速に勢力を拡大している宗教組織だった。
彼らは苦痛を神聖視し、精神の変容を救済と呼ぶ。
戦争で絶望した民の間に静かに浸透していた。
尋問によって、周辺地域に複数の拠点が存在することも判明する。
さらに一部の村人が信徒となり、組織へ協力している事実まで発覚した。
その報告は瞬く間にバリリオンズ本部へ届けられた。
内部反乱分子の存在。
宗教勢力による扇動。
各地で発生する暴動。
事態を重く見た上層部は統制権限の強化を決定する。
地方自治は縮小され、国家規模での指揮系統再編が始まった。
内側ではメソリアが浸透する。戦争は終わった。
だが、本当の混乱は今始まったばかりだった。




