精神暴力の矛先
第34話
精神暴力の矛先
「……痛い」
一人の男が、胸を押さえる。
傷はない。出血もない。骨も折れていない。
それなのに、男は胸を掻きむしった。
「痛い……痛い……」
隣人が駆け寄る。
「どこが痛いんだ?」
「分からない」
「怪我なんてないぞ」
「分かってる……」
男は震えながら答えた。
「身体じゃないんだ」
媒覚。
それはウラニスの民が持つ、通常の五感とは異なる感覚機能だった。
普段なら、人々はそれを意識することすらない。
だが、極端な飢餓、疲労、恐怖、絶望。
それらが一定の閾値を超えると、媒覚の均衡が崩れる。
そして一度崩れた媒覚は、本人が感じる「苦痛」の境界そのものを壊してしまう。
空腹。寒さ。孤独。恐怖。罪悪感。
それらが、本来あるべき大きさを超えて増幅される。
「腹が減った……」
「水を……」
「寒い……」
「誰か……」
街の至る所から声が聞こえる。
しかし、その声の中には奇妙なものが混じっていた。
「助けてくれ」
「痛い」
「誰か俺を殺してくれ」
「もう何も感じたくない」
一人の女性が、子供を抱きしめていた。
「大丈夫よ」
そう言いながら、自分自身に言い聞かせる。
「大丈夫……」
しかし、子供が泣く。
その泣き声を聞いた瞬間、
女性の媒覚が反応した。
子供の悲しみが、
自分自身の悲しみとして流れ込んでくる。
「……っ」
女性は耳を塞いだ。
しかし意味がない。
媒覚は音ではない。
「やめて……」
子供を抱きしめる。
「お願いだから……泣かないで……」
だが、子供は泣き続ける。
女性の苦痛は、さらに増幅する。
最初は数人だった。
次に数十人。
やがて、村全体に広がった。
医師たちは原因を特定できなかった。
怪我はない。
病原体もない。
しかし患者は苦しんでいる。
そして奇妙な共通点があった。
苦痛を訴える者の周囲にいる人間まで、同じ症状を訴え始める。媒覚は共鳴していた。
一人の恐怖が、隣人へ。隣人の絶望が、家族へ。家族の苦痛が、村へ。
そして村全体が、一つの巨大な精神状態になっていく。
ある男が叫んだ。
「もう嫌だ!」
別の男が続く。
「俺もだ!」「俺も……」「私も……」
「もう耐えられない!」
声が重なる。
そして、その瞬間。
大量の媒覚が同時に変動した。
――静寂
誰も喋らなくなった。
その場にいた全員が、同じ感覚を覚えていた。
「この苦痛から解放されたい」
ここで初めて、集団自殺が発生する。
しかし、それは「みんなで死のう」という思想ではない。
それぞれが独立して、
「死ねば、この苦痛から逃げられるのではないか」
と考えている。
つまり集団自殺そのものが、媒覚災害の結果として発生した二次現象になる。
ヒュラは、その街を歩いていた。
「……なんだよ、これ」
人々の様子がおかしい。
泣いている。
震えている。
しかし、誰も怪我をしていない。
ヒュラが一人の男に声をかける。
「大丈夫か?」
男はヒュラを見る。
「……お前は」
「?」
「苦しくないのか?」
ヒュラは黙る。
男は笑った。
「羨ましいな……」
そして呟く。
「何も感じない人間は……幸せだ」
その言葉に、ヒュラの表情が変わる。
何も感じない。
その言葉が、ヒュラには妙に引っかかった。
その頃。
遠く離れた場所で――
ネラも異変を感じていた。
「……なんだろう」
胸に手を当てる。
彼の媒覚が、かすかに震えている。
しかし彼の場合は違った。
他人の苦痛を、強く感じ取ってしまう。
誰かが泣けば、その悲しみを感じる。
誰かが恐怖を感じれば、自分まで恐ろしくなる。
そして街全体に広がった媒覚の異常は――
ネラにとって、まるで何万人もの人間が同時に叫んでいるようなものだった。
「……ヒュラ」
ネラは呟く。
なぜか分からない。
ただ、ヒュラがこの災害の中心にいる。
そんな気がした。
ヒュラは街の中心へ向かう。
そこには、大勢の人間が集まっていた。
誰も動かない。
誰も喋らない。
ただ、苦しんでいる。
ヒュラが一歩踏み出す。
すると
右手が反応した。
あの、異様な存在感を持つ右手。
そして首飾り。
星図のような模様が、わずかに光る。
ヒュラは気づく。
「……媒覚が」
周囲の人間の媒覚が、自分の媒覚に触れている。
一人。二人。十人。百人。
まるで街全体が、一つの巨大な生命体になっている。
そして遠くから――
「ヒュラ!」
声がした。
ヒュラが振り返る。
そこに、ネラが立っていた。
しかしネラは、
泣いていた。
「……どうして……」
ヒュラが駆け寄る。
「ネラ?」
ネラは胸を押さえる。
「みんなが……痛がってる」
「……」
「みんなの苦しさが……全部、入ってくる……」
ヒュラは初めて気づく。
この災害は、「苦痛を感じる民」が増えているのではない。
媒覚によって、民同士の苦痛が繋がっている。
そしてネラは、その中心に近づきすぎている。
ネラがヒュラを見る。「お願い……」
ヒュラ「何?」
ネラ「この人たちを……」
一瞬、言葉が途切れる。「助けて」




