14 ヒトミゴクウ
見えなかった。どうやって躱され、何をしたのか、さっぱり理解できない。防げたのはただのまぐれ、奇跡に過ぎない。
神衣の状態ですら、辛うじて一撃を防御するのが精一杯だったのだ。あの異中は、今なお余裕を残している。勝てるわけがない。
――だがそもそも、なぜ俺は、あの異中の接近に気が付けなかった?
リーダーの男に宿った『神衣』ともう一つの異能――『加護』。
とりわけ加護の力は希少かつ千差万別とされ、男が持つ加護とは、周囲からの危機を捉える『危機察知』の能力である。
だから本来であれば、異中が接近してくる遥か手前――最低でも二十メートル以内に侵入した途端に気がつけるはずなのだ。
それが何故、大男の背後に音もなく完全密着されるまで……いや、目視するまで……。それどころか、目視して敵を正面に捉えてなお、危機察知の網がピクリとも反応せず、大男がやられてようやく反応を示したのか。その根本的な不条理が、全力で地を蹴る今なお、どうしても理解できていない。
神衣の力で爆発的に強化された肉体による全力疾走。五秒と経たないうちに、背後に置き去りにしてきた戦場も、重傷を負った仲間たちの姿も、極夜の森の真っ暗闇に飲み込まれて完全に見えなくなった。
(っち……! 使う予定なんか無かったのに。■■が生意気に逃げやがったから、無駄に追いかけるのに神衣を消費しちまった。本来は、異中と遭遇した時に倒すか逃げるための切り札だったってのに……。――いや、まあ、いいか。ほんと、あの使い捨ての捨て駒どもを連れてきて正解だった。わざわざ逃げる俺を追うより、すぐ側に転がってる餌を優先するだろ。これまで俺のおかげでいい思いをさせてやったんだからな、俺の為に喜んで命を捧げろ。俺さえ生きていれば、何一つ問題ないんだ。■■を使いたいって、言ってた奴らがいたが……『追い付いた時には、異中に食い殺されて、間に合わなかった』とでも言っておけばいい。実際、あいつら二人が帰ってこないから、信じるだろ。代わりに『次はお前が選定者に選ばれるぞ』と脅しをかけた別の女でも宛がってやりゃあ、全員大人しく口を閉じるだろ。あいつらも全員、俺の共犯者なんだから、納得せざるを得ない。あそこは、俺の王国だ。俺は、誰にも脅かされない絶対の王様なんだ。正式に村長になったら、真っ先にあの生意気な――)
そんな、身勝手で傲慢な思考が、最高潮に達した、その瞬間だった。
――ヌルッ。
激しい風を切って疾走する彼の顔の真横に、温度のない、黒い『ナニか』が、張り付くよう並んだ。
次の一歩を踏み出すのと同時に、男は横の異物を確かめるべく、まるでゆっくりに時間が過ぎる様に視線を向けゆく。
――そこに並んでいたのは、先ほどまでの愛らしさなど微塵も存在しない。闇の中で爛々と目を輝かせる、「獲物を見据えた猫の顔」。
神衣によって限界まで引き上げられた自らの最高速度。その真横を、怪物は何の足音も、風切り音すらも立てず、ただ滑るように完璧に並走しながら、男の絶望を真横から冷徹に凝視していたのだ。
「なんゔぅえっ」
「ンナァ」
疑問の言葉を吐き出す暇さえ与えられなかった。
短い仔猫の鳴き声と同時に、斜め上から振り下ろされた不可視の衝撃が男の顔面を捉える。男の肉体は、凍りついた地面に全力で叩きつけられたゴムボールのように激しく跳ね転がり、雪原の泥を撒き散らして無惨に転がった。
男は人生で初めて味わう強大な衝撃に、背中を丸めて這いつくばり、内臓を吐き出すように悶絶する。
(い、痛ってぇ……!! なんなんだよ、コレ! 全力の神衣だってのに……動けねぇ。てか、なんでこっちに来てんだよ! ……というか、どうして今になって――はっ……!)
悪態をつく暇もなく、うずくまり、激しく咳き込む男の頭のすぐ目の前に、異中の長い四肢が静かに降り立つ。
恐怖に引き攣る男の視線が恐る恐る見上げた先。そこに待っていたのは、やはり相変わらずの、人間を心底嘲弄するような「猿の歪んだ笑顔」だった。
待っ――。
極夜の深い森の奥で、何度も、何度も、仔猫の楽し気で愛らしい鳴き声が優しく響き渡る。それと同時に、肉と骨を無慈悲に粉砕するような、およそ生き物から発せられるとは思えない鈍い音が、何度も暗闇の奥で響き続ける。
何故、大男がやられた後に、遅れて危機察知反応を示し、今になってようやく、耳を劈くような警鐘を鳴らし始めているのか。
その答えは、この危機察知の能力と、眼前の異中の本質に関わる、幾つもの要因が複雑に絡み合った結果であった。
そもそも『危険察知』とは何か。
文字通り、自らに牙を剥く「危機」を事前に察知する能力である。
ならば何故、最初の凄絶な一撃を見て。離脱して途切れ、追いかけていないと安心し、攻撃を受けた後に、この男にとっての安全装置は本格的に稼働し始めたのだろうか。
その理由は、男自身が自ら招いた内的要因と、眼前の異質が持つあまりにも気まぐれな生態が重なり合ったもの。
戦士たちが受ける訓練は、本来極めて実践的かつ段階的なものである。
まず、座学にて異中の生態や脅威について徹底的に叩き込まれ、次に対異中用の戦闘訓練を行う。その後、熟練の戦士の付き添いのもと、三から五人の隊を組んで実際に森の中へ入り異中を狩る。
最終段階として、付き添いなしの若手グループだけで十数匹の異中を狩り、コルタクの実をいくつか採取することで、ようやく「戦士」として認められるようになる。
段階を踏んで異中を狩り、生還し続けたという自負。その成功体験が、男の胸の内に「異中など、所詮は能無しの獣。型通りの戦術で御せる大したことのない存在だ」という若手特有の、致命的な慢心を育てさせた。
男の危機感は無意識のうちに薄れ、それと連動して、加護がもたらすはずの危機察知能力の精度そのものを著しく低下させていたのだ。
しかし、この男の慢心だけで、この神速の奇襲を完璧に許すわけがない。
決定打となったのは、この異中が『猫』を主軸とし、そこに『猿』の因子が混ざり合った異中であるという事実。すなわち、猫科動物の持つ特殊な行動特性にある訳だが……。
それが何故、危機察知が反応しない要因となるのか。
実のところ、男の危機察知は、大男の背後に異中が現れる直前に一度だけ、ごく微かに反応を示していた。男が最初に、奇妙な違和感を覚えて背後の闇を振り返った、まさにあの瞬間だ。
だが、その警告は一瞬の火花のように弾け、すぐに消え失せてしまった。
何故か。
猫という生物は極めて気分屋であり、【狩り(捕食)】と【遊び(玩具)】の精神的な切り替わりが、他の猛獣とは比較にならないほど驚くほどに早い。
この異中にとって、闇の中から接近するまでの男たちは「狩りの獲物」であった。しかし、直ぐに「遊びの玩具」という認識に一瞬で切り替わってしまったのだ。
加護の危機察知が捉えるのは、対象が放つ明確な殺意と、命を奪おうとする害意、敵意のみ。
つまり、この異中は無意識に、能力の致命的な抜け穴を完全に突き、ただ無邪気に「じゃれついていた」に過ぎなかった。
悪意のない純粋な暴力。骨を砕かれ、肉を裂かれ、己の命が物理的に消滅の危機に瀕して初めて、肉体側のシステムが「これは手遅れの危機である」と、虚しくけたたましい警鐘を鳴らし始めたのだった。
そして――肉体をボロ雑巾のように破壊されながら、男の脳裏にこびりついて離れない、もう一つの致命的な疑問。
なぜ異中は、すぐ側に転がっていた『身動きの取れない安全な獲物』ではなく、わざわざ逃げ出した自分を追いかけてきたのか。
弱肉強食の野生の世界において、生物は常に他の生物との生存競争に身を置いている。それゆえに、どのような猛獣であれ本能的に『負傷』を最も恐れる。
過酷な自然界における傷は、そのまま自らの死へと直結するからだ。
だからこそ、背を向けて死に物狂いで逃走する不確実な獲物を追うリスクを冒すより、目の前にある、より安全な獲物を確実に仕留めて優先する。
それこそが、生物たちが共有する絶対的な『野生の常識』。
その生存戦略は、もちろん異中たちの世界であっても等しく共通する鉄則のはずなのだが……。
先述した通り、この悍ましき異中の行動原理は、生存のための狩り(捕食)などではなかった。異中にとって男たちは、腹を満たすための食料ではなく、退屈を紛らわすための純粋な遊びの玩具に過ぎない。
つまりこの異中は、怪我のリスクを一切考えてなどいない。
むしろ、猫という生物の血が濃く流れているからこそ――目の前で激しく動き、恐怖に顔を歪めて必死に逃げ惑う玩具ほど、その狩猟本能を狂おしく刺激し、どこまでも追いかけ回したくなるものだった。
玩具をすぐには壊さず、息の根が止まるその寸前まで、徹底的にいたぶり、弄び、愉しむ。
自分だけが助かろうと、仲間を冷酷に捨て駒にした男の浅ましい生存戦略は、異中の持つあまりにも無邪気で残酷な習性の前に、何の意味も持たずに完全な破滅を迎えるのだった。




