15 ヒトミゴクウ
遠くから何度も、鈍い音が聞こえ続け、いつの間にか、あの短い悲鳴は聞こえなくなっていた。
少女は男の言葉にショックを受け、未だ動けないでいた。
男の言葉は、少女が心の奥底にずっと隠し持っていた、都合の良い淡い期待を無慈悲に暴いた。
両親だけは最後の瞬間まで、自分の味方でいてくれる。私を追いかけてくれるはずだと、ずっと、ずっと、心の隅で思い続けていた。
きっと、二人は本当にそのつもりだったのだろう。その愛に嘘はなかった。
だけど、その願いは最悪の形で潰え、二人は死んでしまった。
だからこそ、溢れ出す後悔を止められず、思わずにはいられない。
もし、私がコルタクに疑問なんて抱かなければ。教えを疑わず、ただ従順に生きていれば、選定者に選ばれることなんてなかったのではないか。
そうすれば、今だって、あの温かい家で、二人と一緒に……。
ぐちゃぐちゃに掻き乱れる思考の最中、ふと、少女の目の前で小さな草の擦れる音がした。
涙に濡れた顔をあげる。
そこに佇んでいたのは、血の匂いが漂うこの森にはあまりにも不釣り合いな、愛らしい猫の顔をした悪魔だった。
――ああ……最低だ……。
猫は少女の体を隅々まで品定めするように観察し、手を何度か振って確かめた後、ギリギリ目に見える速さですくい上げるように少女の顔面を抉り上げた。
――それは結局、他の人を犠牲にした幸せ。
少女は無抵抗なまま、放物線を描いて高らかに打ち上げられた。木の枝に激突し、へし折りながら地面に叩き付けられ、嫌に鈍い音が森に響いた。
――これは罰なのだろう。コルタクを信じきれず、今なお、誰かの不幸の上に成り立つ幸せを夢見てしまった、私への。
異中は、先程までの男たちを弄んでいた時よりも、さらに丁寧に、執拗に嬲り続ける。それはきっと、目の前の玩具が男たちより遥かに脆く、壊れやすいと判断したからだ。
――どうすれば良かったのだろう。
だが、あまりにも無抵抗で壊れかけの少女に、異中はつまらなそうに欠伸を噛み殺した。そして、興味を失ったように毛繕いを始める。
――私が二人を死なせた……。私が、殺した。
毛繕いを終えた猫は、腹の鳴る音に空腹を覚え、ゆっくりと少女へと歩み寄る。残った息の根を確実に仕留め、貪り食うために。
――きっと、私なんて……生まれて来なければ……。
感覚が、徐々に自分の肉体から剥がれ落ちていった。激痛は波が引くように薄れ、代わりに、分厚い毛布に包まれるような、奇妙に心地よい冷たさが身体を浸食していく。終わりがすぐ側まで迫っていた。
その瞬間、フッと、皮肉なほど意識が鮮明になる。
少女の右手は、無意識に泥を掴んで前へと伸びていた。
思考は「生まれて来なければよかった」と終わりを望んでいたというのに。
それを見て、少女の瞳からじわりと涙が溢れ出す。
ああ……死にたくない。死にたく……ない。死にたく……ないよぉ……。
震えて上手く力の入らない体を引きずり、少し、また少しと、地面を這い進む。
ほんの少し前まで、必死に生き抜こうともがいていたのだ。どれだけ精神が絶望に染まり、死を覚悟しようとも、それを間近に感じると思わず、目を背け、生に縋りつこうとしてしまう。
当然だ。誰だって死ぬのは怖い。それにまだ十二歳の少女なのだから。
だが、少女のその抗いを察してか、異中は先程までの退屈そうな雰囲気を一変させた。
玩具の底なしの絶望を前にして、心底楽しげに、歪んだ悪魔のような笑顔を浮かべた。
少女の流した涙と、生への渇望を嘲笑うように、異中が一歩を踏み出そうとした。
――その刹那。
にやにやと歪んでいた異中の笑顔が、突如として凍りつく。異中は突き出そうとした足を不自然に制止させてから下ろし、「ンナァ〜?」と首を傾げた。
それは、まるで理解不能な出来事にでも直面したかのような、間の抜けた、しかし明らかな疑問を孕んだ鳴き声だった。
その声の異変にさえ気づく余裕もなく、少女はただ生を求めて、泥の浮いた雪を掴み、また少し、少し前へと這い進もうとする。
だが、少女の指先が次の一歩を刻むより早く、森のずっと、ずっと深い闇の奥から、静かに『それ』は姿を現した。
ガサリ、と雪を踏み締める音が、一つ。
異中のそれとも、先ほどまでの男たちのそれとも違う、極めて冷徹で、悠然とした歩調。
足音はゆっくりとこちらへ近付き、やがて、這いつくばる少女のすぐ目の前でピタリと立ち止まる。
「ぁ……ぃ……?」(何……?)
少女は、残された最後の力を振り絞り、泥と涙に塗れた顔をゆっくりと見上げた。
朦朧とした意識の輪郭、歪む視界の先。
松明の失われた暗闇の中で、辛うじて捉えたのは――深いフードを被り、不自然なほど高い襟高の衣でその顔を隠した、人の形をしたシルエットだった。




