10 ヒトミゴクウ
森を駆けながらチラリと背後に視線を向ける。
虚を突かれた数秒。わずかだが確かな距離を稼ぎ出したが、それでも男と女。それも鍛えてきた戦士と、ただ舞を踊らされていただけの選定者だ。身体能力の差など考えるまでもなく、男たちはすぐに追いつくはずだった。
わずかだが確かな距離を稼がれたが、それでも男と女。それも戦士とただ舞を踊る選定者。その身体能力の差は考えるまでもなく、男達は直ぐに追い付ける。
――そう考えていたのだが……。
「はぁ!? なんであんなに速く走れるんだよ!」
「わ、分からなんだ」
「閉じ込められて運動なんて出来なかったはず……。ありえない」
「くそっ! なんで勘付かれたんだ!」
男達は全力で走るも、彼女との距離が縮まらない事に苛立ちと焦りを募らせていた。
これは、少女にとっては想定外であり、ある意味想定内のことだった。
少女は選定者として幽閉されたあの瞬間から、この日のために、必死に努力を重ねてきたのだ。
選定者に与えられた唯一の義務は、祭事にて舞を披露すること。つまり、少女は「舞の練習」を完璧な口実として利用し、毎日何十、何百時間もの間、絶え間なく舞い続けることでその肉体を鍛え上げてきた。
すべては、この森に彷徨う異中から逃げて生き延びるために。本来の目的とは違うが、「逃げる」という現状の意味では同じだ。
これまで舞によって鍛えられて来た体力と、無駄の一切ない身体の動かし方を覚えた少女に対し、戦士として鍛えて来たとは言え、武器や体に着けた皮鎧が重りとなっており、それらの要因が、男女の肉体的な差を埋めていた。
必死の逃走を続けるうち、男たちはわずかずつではあるが距離が縮まり始めていることに気が付き、口元を緩む。
所詮は女だ。肉体的に劣ってるんだから、このまま追いつくか、先に疲れ果てるかのどちらかだろう。とほくそ笑み、男たちの心に、余裕が生まれる。
一歩、また一歩。と、差がじわじわと縮まっていく。
だが、その瞬間。
少女の身体が膨れ溢れるように姿が隠れ、広がったそれが突撃してくる男たちの視界を埋め尽くすように迫り、正面から襲い掛かる。
「なっ――!?」
全力で走っていた彼らに、予期せぬそれを回避する猶予など残されてなく、男たちはまともにその白い布を受け、強制的に足が止まる。
「ア゛ア゛!?んだよこれは!」
「な、何が起こってるんだな?」
「ちょっ、お、落ち着いて。暴れないで。ただの布。祭事の服ですよ」
少女が走りながら脱ぎ捨て、背後へ放り投げた白衣――汚れなき神聖の象徴であったはずの晴れ着。
それが、ただの目眩ましの布切れに成り下がって三人に張り付き、互いにパニックを起こして引き剥がそうとしたせいで、彼らは無駄な手間を食う羽目になった。
ストレスが限界に達した村長の孫(兄)が、顔を覆う布に力を込めて薙ぎ払うように引き剥がすと、その乱暴な勢いに巻き込まれた取り巻きの二人が、弾き飛ばされるようにして傍らの巨木へと激しく叩きつけられた。
「んだぁ!」
「いだぁ!」
二人が苦悶の声を上げて這いつくばる中、リーダーの男はワナワナと激しい苛立ちに拳を震わせる。
松明の炎が照らし出す視線の先に、少女の姿はもうどこにもなかった。わずか数秒の目眩まし。だが、その一瞬で彼女が右へ曲がったのか、左へ逸れたのか、それとも真っ直ぐ突き進んだのか、闇に閉ざされた森の中では判別がつかない。
雪に刻まれた足跡の痕跡を追うことは可能だろう。だが、この夜の暗闇の中、揺れる光だけで注意深く足元を観察していれば、追跡の速度は著しく落ち、その痕跡すら見失いかねない。その手間の煩わしさと、確実に少女との距離が離されるのを理解し、怒りに声を荒らげたくなる。
だが、ここは異中が潜む魔の森の中故にそれは出来ず、行き場のない怒りが、男の胸の内に、どす黒く蓄積されていった。
少女はしばらく真っ直ぐに走り続けたのち、唐突に斜め右に聳える木の根元へと跳躍し、その方向を直進する。
戦士になった男たちなら、訓練で僅かな痕跡を辿ることくらいはできるはずだ。だからこそ、時折歩幅を不規則に変えたりして、僅か数秒でも足の痕跡を見失わせ、探すための時間を与えようと、徹底的に細工を重ねていった。
なぜ、少女はあの男たちから逃げたのか。
彼らの思惑を正確に読み取ったからだろうか。
そんなことはなく、答えはもっと単純だった。
(なんでわざわざ、あんなゴミみたいな村に……。誰が好き好んで戻るというのよ)
少女は既にあの村も、村人たちも、とっくに見限っていたのだ。
走る合間に、頭の中に過去の記憶の断片が過る。
選定者のためにコルタクの実を獲りに行き、異中に襲われて無惨に肉を食い千切られた戦士たち。彼らの亡骸にすがりつき、獣のように咽び泣いていた村人たちの姿を、私はただ冷ややかに見つめていた。そのとき、私の無感動な瞳に気づいた村人たちが、こちらに向けてきた、あの視線たち――。
少女は激しく頭を振って、浮かび上がった光景を無理やり消し去った。
関係ない。
関係ない。
関係ない。
関係なーー。
唐突だった。
「ドスッ」という、重く鈍い破壊音が鼓膜を叩くと同時に、右足に未だかつて経験したことのない激しい衝撃が走った。
少女はまるで目に見えない糸を引っこ抜かれたように、前方に激しくつまずき、雪原へと倒れ込む。
「あ、うぅ……っ。な、なに……?」
激痛のために満足に声が出ない。震える両肘を地面についてどうにか上半身を起こし、恐る恐る自分の右足へと視線を向けた少女は、そこに現れた光景に息を呑んだ。
ふくらはぎから、まるで地面から生えるようにして、先ほどの大男が持っていた無骨な槍が突き刺さっていた。
目で見て視覚的に知覚してしまったからだろうか。一瞬遅れて、ふくらはぎの内側の肉をぐちゃぐちゃに引き裂かれるような凄絶な激痛が、脳天を突き抜ける。
反射的に悲鳴を上げようとしたが、あまりの痛みに息が詰まり、喉からは「あ」とも「う」ともつかない、掠れた引き攣り声しか漏れない。
黒光りする鋭利な穂先が脚の肉を突き破り、反対側の皮膚を貫通したまま、倒れ込んだ衝撃で地面へ突き刺さる。
傷口からは、ドクドクと脈打つように熱い鮮血がとめどなく溢れ出続けている。
激痛に悶えながら、立ち上がろうと足に力を込めるが、引き裂かれた筋肉の隙間を血がじわじわと広がっていく不気味な感覚と、槍が骨に当たっている感触が伝わるだけで、右足はだらりと肉の塊のようになって全く機能しなかった。
ちゃんと確認しなくとも分かる。槍に足の骨を砕かれている。
視界がぐにゃりと急激に歪み、喉が渇き水分を欲して息が荒くなる。額からは嫌な冷や汗が次々と吹き出て、指先の感覚が急速に薄れていく。
一体、どうやってコレを刺したのか。どうやって私の正確な居場所が分かったのか。
理由できないが、決まっている事がある。
(早く、動け……動け、動け……!)
言うことを聞かない足と、自分自身に鞭を打つように強く言い聞かせ、この場から早く離れようと少女は両腕の力だけで、地面を這って進み始めた。
だが、そんな彼女の奮闘も空しく、背後から雪を踏み締める足音が迫っていた。




