98 精霊騒動【南方遠征、みんなで南へ行こう!13】
今から三日ほど前の深夜、その夜はひとつだけの三日月が微かに世界を照らしていた。その薄暗い世界で、大森林の中にあった大きな湖は静まり返り、一方、湖畔の木々では、夜行性のネズミやムササビのような小動物が闇に忍んでカソコソと動き回り、それをフクロウのような猛禽類が目敏く見つけて襲うかと思えば、遠くから「ホーゥ、ホーゥ」というフクロウのようでフクロウではない何か別の鳥の声が聞こえてきていた。
そんな中、湖面に一匹の蛙が顔を出した。いや、蛙なので丸い二つの目玉だけを湖面から出したというのが正しいか。
僅かに湖面を揺らしながら小一時間、蛙は音もたてずに、そういった周囲の様子を見続けた後、機が熟したのか、そろそろと湖畔に近づき、そしてネズミやフクロウを恐れることもなく這い上がると、月明かりの下で粘液を垂らしながら滑滑とした赤黒い体表を晒していた。既に隠れる気は無いのだろう。その姿は湖を挟んで反対側の湖畔からも見えていた。そんなもの見えるはずがないと思ってはいけない。なぜなら、その蛙は全高三十メートルの巨大な魔物だったからだ。森林の木々の中には、背の高いものだと五十メートルに及ぶこともあるので、さすがに森の外からは見えていないが、障害物の無い湖を挟んでなら、その姿を十分に見ることが出来た。
その魔物の名は大蟇蛙。その見た目も、体表が粘液に塗れていることも、通常の蟇蛙とは明らかに違うのだが、きっと宗教に侵された愚か者がそう名付けてしまったのだろう。
地球でも、蟇蛙の扱いは国や地域によって大きく異なっている。日本では大国主命の国造りを助けた神とされ、中国では蟾蜍と呼ばれて、不老不死の薬を作る月宮の精とされ、三本脚の蟾蜍至っては財運をもたらす存在と言われている。さらに、アイヌ神話では大地を支える存在とされ、古代エジプトでは蟇蛙の頭をもつ女神ヘケトが生命の誕生や復活、そして豊穣を司るとされている。その一方で、西洋では不浄な悪霊や罪の象徴とされ、魔女が禍々しい薬物を作る際の素材とされている。田畑を守る生き物として大切にする民族と、獲物として食った狩猟民族との違いなのかもしれない。おそらくだが、この国は、中世ヨーロッパ風の文化を築いているので、この魔物の見た目の邪悪さ故に蟇蛙の名を与えてしまったのだろう。
その大蟇蛙が三日月を前にして天を仰ぎ、その舌で月でも狙ってるかのように、ゆっくりと巨大な口を開け、そして声を発した。
「ぶぉおおおおおおおおおおおおおお!!」
大型船舶の汽笛のような鳴き声が、夜の森に響き渡った。その鳴き声こそが、大蟇蛙の「ボウ」の由来である。
すると、目の前の湖面が激しく波打って、周囲の木々が揺すられて木の葉が舞い落ち、眠っていた鳥や獣が目を覚ますと我先にと逃げ出して、ごーーーーっという嵐のような喧騒が湖畔の森を埋め尽くした。そして、その騒ぎの元凶である大蟇蛙はといえば、獲物を追うでも無く、どっしりとした巨体とは裏腹に、寂しさを窺わせるように、ぽつねんと湖畔に尻を据えていた。
やがて、森の喧噪が静まると、全ての生き物たちが鳴りを潜め、耳が痛くなるような静寂が訪れる。
……………………………………………………。
時間が止まってるのではないかと錯覚するほどの時間が経過したとき、モコッ、モコッと、湖のあちこちから大蟇蛙が顔を、いや目を湖面に出し、するすると地上にいる仲間に集まっていった、そのとき……。
ぶわっさん!!
突然水面に青緑を帯びた巨大な白銀の柱が立ち上り、舞台の紙吹雪のように、きらきらと月明かりに反射する水の滴を撒き散らした。その柱の先端では、大蟇蛙が声も出せずに下半身だけじたばたと暴れさせていたが、その下半身も徐々に柱の中へと姿を消していく。次に、その柱の先端が首を曲げて湖面に向かうと、次の獲物に襲い掛かった。
どぶぉおおおん!!
巨大な波飛沫を上げて、新たな大蟇蛙の上半身に喰らいつき、再び頭を振り上げて全身を飲み込む。その白銀の柱は、頭の方しか見えていないうちは、ブロントサウルスのような恐竜の首ということも考えられたが、うねうねとした動きと長さからすると、きっと大蛇なのであろう。だが、普通の大蛇ではない。大蟇蛙を飲み込める巨体。太さが五十メートルを超える、凄まじく巨大な存在であった。それが今、大蟇蛙の群れを襲って、次々とその腹に収めていた。
この大蛇に名前はない。まだ人々に、その存在を知られていないからだ。
大蛇が湖にいた大蟇蛙を食いつくすと、最後に地上に残った一匹に狙いを定めた。しかし、その姿はすでになく、川を遡上するかのように逃げ出していた。大蟇蛙が川に沿って逃げたのは、水の近くでしか行動できないという制限があったからだ。大蛇は川に半身を潜らせて、大蟇蛙の逃げ場を塞ぐようにして、その後を追う。
どす~ん、どす~ん!
どどどどどどどどどどどどどどどどっ!
大蟇蛙が跳ねた地響きと共に、大蛇が川底を削り取る轟音が鳴り響くこと二晩。ときには川に掛った石橋を跳ね飛ばしもした。そして、ついに川の源流で逃げ場を失った大蟇蛙に大蛇が食らいついたところで、大蛇が動かなくなった。力尽きたのとは違う。大蛇の胴体が石のように固くなり始めていたのだ。
* * *
「……という夢を見ました」
石化しかかった大蛇の脇で全員が一泊した翌朝、ユリは夢の内容を仲間たちに身振り手振りを加えて話していた。
「あんたねぇ、朝っぱらから大事な話があるっていうから何かと思えば、夢の話?
なんでそんなもの聞かされなきゃいけなかったのよ!」
「まあ夢なんですけどね。
でも夢にしては、起きてからもはっきりと覚えてるし、変な解説も入ってて、起き抜けにドキュメンタリー番組を見せられたみたいな感じだったんですよね~」
「中々真に迫ってましたね。天啓ってやつでしょうか。
ユリさんは神の祝福を受けてるんですかね?」
アルバートの問いにユリが答える。
「祝福ですか~?
どっちかっていうと、神様からは嫌がらせをされてる感じなんですけどね~」
「でも、ユリさんの夢が正しいならぁ、あの大きな蛇さんはぁ、聖獣だったってことでしょうかぁ」
「なあ、ミラ。
俺はまだ聖獣に出会ったことがないから分からないんだが、聖獣が石化なんてするのか?」
「さぁ、どうなんでしょう?」
「クレアさんはどう思います?」
「邪気が全くなかったから、あれが魔物ではないことだけは確かでしょうね」
少女モードのクレアが答えた。
「石になったのは、食べた大蟇蛙の毒が身体に回ったせいじゃないの?
ユリの夢の前にも、何か変な物食べてたかもしれないし」
「じゃ、なんでそんなもの食べたんです?」
「そういえば、毒キノコを食べて死にかけた司祭仲間がいましたねぇ。
その子は『毒キノコって、おいしいのよ』って言ってたんですけどぅ、味わった後で解毒魔法を掛けようと思ったらぁ、舌が痺れて詠唱できなかったんですぅ」
「ミラさん、それって、どういうこと?」
「本来なら平気だったってことでしょ。
聖獣なら詠唱は必要ないけど、この辺りの精霊が薄くなってたから、毒が浄化できなくて石化してしまったのよ」
「大体の話は分かった。だが、今の段階では夢物語に過ぎん。
実物で確かめてみよう」
ウルフがそう言って立ち上がると、ユリたちもそれに従った。
まずは、クレアに大蛇の状態を確認してもらう。現在、その見た目は、前日に見たときの金属光沢はすでに無くなっていて、黄土色の素焼きの土器のようになっている。クレアは、大蛇の胴体らしき壁面を暫らく優しく撫で回すと、何の感情も見せずに言った。
「完全に石化したわね」
「そうですか。現実に動いてるときの姿も見たかったですけど、残念ですね」
ユリは夢で見たことが、現実の出来事だと断言するつもりはない。
ただ、ダルシンあたりが何かやらかしてるのではないかと疑ってはいる。せめて確認可能なことは確認しようと、ドロンチョに出来るだけ遠くの状況も見てもらったが、頭も尻尾も見ることは出来なかった。ずっと先まで見に行かせることも出来たが、ドロンチョの飛翔能力は通常の鷲程度なので、あまり遠くまで行かせることは出来なかった。
ただ、はっきりしていることがある。
「川が無くなっているだと!?
どういうことなんだ、ユリ!」
「いや、どういうことって言われても、夢で見た通りとしか……」
ユリは上空から見た状態を皆に説明した。幅広の川があったはずの場所に大蛇の石化した死体がすっぽりと嵌って、川も橋も無くなっていると。夢では大蛇が川をなぞるように遡上していたので、この石になった大蛇の下に川があったのだろうと思われる。
それに、ウルフが噛みついてきていた。それも無理はない。この大蛇の死体は城壁代わりになるかもしれないので、水堀が無くなったことはそれほど問題ではない。問題は、南の街が、その川から引き込んだ水を利用していたことだ。
「とにかく、さっさと街に入りましょ!」
「いや、その前にどうやって行くかが問題であってだな……」
「だいじょう~ぶ!」
馬車を待たせておいて、ユリたちは街道の突き当りにある壁……大蛇の胴体……の前に集合する。
「ジェイクさん。この壁を突き飛ばしてみてください」
「ふむ」
そう返事をしたジェイクが、気合を入れて張り手を噛ました。
「はぁああっ!!」
どーーんっ!
がらがらっ……がらがらがらがらがらがらがらがらっ!!
張り手の轟音に続いて壁が崩れ落ち、その奥にトンネルが現れて、そしてすぐにトンネルの天井が崩落した。
「あぁあああ!!
私の努力が~~っ!!」
ユリは、一気にトンネルの中身を次元切断してアイテムボックスに切り取ることも可能ではあったが、それをやると中が真空になって、大気圧で入り口を出口の壁が中に向けて吹き飛び、大惨事になることが予想できた。なので、現実のトンネルのように、大蛇の背中から縦に何本も空気穴を開けておいてから、外皮の部分を残して、トンネルにする部分の中身を数十回に分けて抜き取り、後は出入口の壁を崩すだけの状態にしてあった。
そしてジェイクにその壁を崩して貰ったのだが、石化した蛇の身体は時間の経過と共に急速に風化して数多くの罅が入り、その結果、補強されていないトンネルが崩落したのであった。
結局ユリは、トンネルは諦めて切通しにすることにした。
「ユリったら、なんで最初からこうしなかったのよ」
「石になったとはいえ、聖獣だった蛇さんの身体を抉るのは、目立たない方がいいかなって。
それに、この後これを城壁として使うなら、出入り口はトンネルの方がいいかなと思って」
「城壁は既にあるじゃない」
「あ、いえ、まだ言ってませんでしたけど、前のはもうないです」
「「「はぁ?」」」
ユリはその光景を、ドロンチョを飛ばしたときに既に見ていた。そしてそれは今、切通しの向こうに見えている。
マリエラたちは、それをユリが切通しを作ったときの瓦礫の山だと思ったのかもしれない。しかし、それは違う。向こうに見えているのは、元は城壁だったものの残骸だった。大蟇蛙の逃走劇の余波で、南の街では石作りの構造物の大半が崩壊していたのだった。




