76 環境改善活動【衣食住の住2】
それは、ユリが異世界に来て初めて泊った、東の街の宿でのこと。
異世界で初めての宿なので、いろいろと興味はあったが、割り当てられた灯りのない部屋にほぼ空の荷袋だけ放り込んで食堂に集まったので、そのときはどういう部屋なのか、まだ確認していなかった。そして、食堂でラッシュ・フォースとの談話が済んで部屋に入ったとき、有償の灯りを借りて来るのを忘れて、どうにか魔法の照明を使えるようになって、部屋の中の様相がはっきりと見回せるようになると、そこに据えられてあったベッドらしきものを見て唸ってしまった。
「う~ん、これは想定外でした」
その状況を全く予測していなかったわけではない。食堂の様子から、この宿が山小屋を少し奇麗にした程度の建物であることは既に分かっていた。ただ、ユリは小説の影響で、元いた世界のログコテージのような部屋を想定していたので、それがログハウス以下の山小屋の物置のような部屋で、そこにベッドと即断できない『ベッドらしきもの』が置かれていたことに衝撃を受けていたのだった。
ユリは、小説の和製異世界ファンタジーの知識だけはあった。だから、異世界であっても現代風のベッドが普通にあって当たり前のものだと思っていた。しかし、目の前にある『ベッドらしきもの』は、ユリが知っているような代物ではなかった。それは、ふかふかの羽布団でも綿布団でもないし、スプリングの利いたマットレスと毛布でもない。あえて言うなら『アルプスの少女ハイジ』が愛用していた干し草のベッド。木製の台の上に、短く切った干し草が厚く敷かれていて、シーツなのだろうか、所々に穴が空いた薄汚い布が被せられていて、その上に厚手の布が毛布のように掛けられていた。枕はない。勝手に干し草の積み方を変えて使えとでもいうのだろうか。あるいは、ここの人たちには、枕を使う習慣がないのかもしれない。はっきり言って、あのハイジのベッドより酷い。
「ハイジは十九世紀のお話なんだから、その数百年以上前の文化であるこの世界で、あれより劣るのは仕方ないじゃない」
そう自分に言い聞かせて、自分を納得させることにした。
まあ、それはいい。
「見かけは我慢するけど、これ、絶対にダニとか蚤とか虱とか床虱(南京虫)とか、何かしら害虫がいるよね」
ユリは潔癖症ではないが、身の回りのものを清潔に保つようにと、子供の頃から祖父母に躾けられていた。だから、見るからに不潔なベッドが気になってしまう。布の方は洗濯ぐらいしているかもしれないが、穴が空いたままなので、手入れが十分とは言えない。おそらく干し草は使いまわしているはずだ。だとしたら、前の客の汗とかも吸ってるだろうし、不潔な客ならダニや蚤や虱や床虱(南京虫)を置き土産にしていてもおかしくはない。あと水虫の白癬菌とかも。水虫というと足の指や足の裏に感染するイメージがあるが、胸や背中や顔や頭皮への感染例もある。
「ええっと、それじゃあ、まずは囲いを作って……」
そう言って、ユリはベッド全体を包むように裏返しの防御結界を張る。
「次に、中を温風で加熱っと」
今度は、結界内に水分を加えて七十度くらいに加熱して蒸し焼き状態に。白癬菌を殺すには六十度以上にする必要があるが、温度を上げ過ぎると干し草に含まれた油分が発火したりするから注意が必要だ。その状態を保ったまま、月の様子を調べたりしていたのだが、三十分ほど加熱して、タンパク質が変性してダニなどの害虫や菌が死滅したのを見計らって、今度は結界内を空冷して、冷えるのを待って結界を解除した。あんまり乾燥させると干し草が着火しやすくなってしまうが、加熱で発生した蒸気は結界内に閉じ込めていたので、空冷した後の干し草の水分量は、ほぼ元のままだ。虫の死骸でアレルギー反応を示す可能性もあるが、今のユリなら多分大丈夫だろう。
そうして準備万端整えて、ベッドに潜り込んで寝たのであった。
「あっ、少しだけいい匂いがする……」
偶然か意図的なものか分からないが、干し草の匂いの中に、何かしらハーブのような香りが混ざっていた。その芳香のおかげで、ユリはぐっすりと眠ることが出来たのだった。
干し草の布団は、干し草が発酵することで暖かいのだが、そのための菌も死滅していたことにユリが気付いたのは、翌朝寒さで目覚めた後のことだった。
そういう衝撃的な出会いもあって、現在、ユリがトイレの次に問題としているのが寝床だ。
現代ではマットレスを敷布団にしたり、化繊綿の布団や毛布を使うケースも増えているが、少し前なら木綿の綿布団か羽根布団、そして羊毛の毛布を使うことが多かった。平安時代の日本なら、中国伝来の衾と呼ばれる一枚の布を掛け布団にしていて、庶民は和紙で稲藁や古綿を挟んで作られた紙衾を使っていたという。紙衾は携帯用の夜具でもあり、江戸時代に松尾芭蕉が奥の細道の道中で愛用したとされる記録がある。
平安時代のヨーロッパはといえば、中世前期の頃で、北欧では羽根布団が既に使われていたが、それがヨーロッパ全土に普及するのはもっと後のことだった。この当時、羊毛の毛布はまだ無くて、南方の貴族は中国から輸入した真綿(絹)を使った布団を使うこともあった。
ユリが今いる異世界の文化はといえば、ヨーロッパの中世前期を基本として、部分的にルネサンスの文化の芽生えが見られる状況であったが、寝床については中世前期のものだった。前時代的と言っては語弊がある。ユリが元いた世界では、紀元前二千年頃の遺跡から木枠に革や植物の繊維を編み込んで作った、籐椅子のような構造の通気性の良いベッドが出土している。長方形の寝床の片方の短辺にだけ背の高い板があり、初見だとそっちが頭側かと思いきや、実は足側のフットボードだという。江戸時代の殿様が使っていた便所に鳥居型の器具が付けられているのを見て、そっちが前かと思ったら、それは背中側で着物の裾を掛けるためのものだと聞いて驚くような感じだ。
まあ、細かいことはどうでもいい。古代エジプト時代には、ベッドの原型が出来上がっていたのにも関わらず、中世ヨーロッパのベッドは、そこからほとんど進化していなかった。天蓋付きベッドが作られたのも、中世末期のことだ。そして、この世界のベッドはといえば、古代エジプト時代から変わっていない中世前期のものに近く、下手をしたらそれより劣化したような代物であった。
そして更に、この世界の庶民の寝床事情は、かなり酷い。床に撒いた麦藁に麻布を被せたものならまだ良い方で、ダンジョンに潜っているときはもちろん、宿の三等室やハンターギルドの宿泊所では、木や石の床の上に雑魚寝しなければならない。羊毛の毛布は高級品なので、庶民は日本の衾と同じように布を掛けたり、毛皮を被ったりして寒さを凌いでいた。
貴族や金のある上級庶民になると、木や石の台の上に麦藁の芯で出来たマットレスを乗せていたり、古代エジプトのベッドのように木枠に縄でトランポリンのようにしたものを使ったりもしていた。ユリがラッシュ・フォースと共に泊っている宿の部屋には、木製の寝台があったわけだが、そこが庶民向けとしては比較的高級な宿であることが後になって分かった。
ユリがレッド・グレイヴに同行してダンジョンで初めて床の上に寝たとき、ユリは思ったものだ。
「ううっ、石の床の上でそのまま寝るのって、硬いし冷たいし、どうしてみんな平気で寝てられるんですか。
リーダーのロードさんとか、片膝立てて座って寝てるけど、あれじゃ疲れが取れないし、みんな睡眠を軽視し過ぎです!
なんでもっと気持ちよく寝ようって思わないんですか!
うううっ、辛いです……。
いや、今の私は仮の姿。そう、泡沫の夢なの。
私の本当の身体は、今は病院のベッドの上のあるのよ。
だからこの体の痛みは夢。現実じゃないの。きっとそう……」
そう思わないと、やってられないユリであった。
その後、王都に来て、ブレイヴ・ソードに潜入して、そこを馘になった後、その跡を追ってダンジョンに潜ったときは、収納バッグの携帯小屋に仮設簡易水洗トイレを設置したものを、携帯トイレとして持ち歩いていた。このとき既にベッドは用意してあって、アイテムボックスにベッドを入れて持ち歩いてはいたのだが、それを使うのはかなり目立つ。だから、仮設簡易水洗トイレを設置した携帯小屋にベッドを置くことも考えたが、トイレと一緒の場所に置いておくのもちょっと気が引ける。一時的に使う便所と違って長時間使うもので、しかも寝ている間は無防備になるから、グループでの行動中にひとりだけ離れた場所で使うわけにもいかない。
どうしようか悩んだので、隣で横になっていたマリエラにちょっと訊いてみた。
「ねぇ、マリエラさん。こんな硬くて冷たい床の上に寝て、しっかり眠れるんですか? 寒くないですか? 背中痛くなりませんか? これじゃ、ひと眠りした後でも疲れが取れませんよね?」
「ユリ。あんた、何言ってんの。いつ魔物が襲ってくるか分からないってのに、いくら不寝番を立ててるからって、ぐっすり寝てられるわけないでしょうが。こうやって寝づらい方が、何かあった時にすぐに起きられていいのよ。
まあ、うちのリーダーみたいに、ジェイクに蹴飛ばされないと起きないような図太いのもいるけどね。あたしが不寝番のときはジェイクを先に起こすか、あいつの首筋に魔法で作った氷を落として起こしてやってるわ。
面白いわよ。大の男が女の子みたいな声で『きゃっ!』って叫んで飛び起きるの。ユリも機会があったら、やってみたらいいわ」
「え~~っ、そういう生活続けてたら、早死にしちゃいますよ~。
寝不足とか、氷でびっくりして起きるのとか」
「そう? 長生きなんて、ハンター稼業してる時点で無理じゃないの?」
「マリエラさん! そういう割り切りは良くないですよ!」
完全なブラック体質だった。
ユリは、寝床対策はもう少し考えることにした。




