第九話 写真に写らない夜
八月も終わりに近づき、夏休みも残りわずかとなった頃、久しぶりに夏帆が天文部の活動に同行することになった。
「たまには私も、星、見てみたいなって」
午後、部室に顔を出した夏帆は、そう言って屋上への階段を上っていった。
「夏帆が観測に来るなんて、珍しいですね」
「だって、遥がいつも楽しそうに話すから、ちょっと興味出てきたんだよね」
夏帆はそう言いながら、屋上に並べられた望遠鏡を興味深そうに眺めた。
「相沢さんも、久しぶり」
「うん、久しぶり、夏帆ちゃん」
彗は屋上の入り口で、夏帆に手を振った。
三人での観測は、これまでとはまた違った空気があった。夏帆は星に詳しいわけではないけれど、素直な感想を口にするので、それが新鮮だった。
「これが北極星? 意外と普通の明るさなんだね」
「一番明るい星ってわけじゃないので」
私が答えると、夏帆は意外そうに目を丸くした。
「へえ、そうなんだ」
彗は夏帆の隣で、望遠鏡の使い方を丁寧に教えていた。その様子は、まるでずっと前からの友人同士のように自然だった。
しばらく星座の説明をしたあと、夏帆がふとスマートフォンを取り出した。
「せっかくだから、写真撮ろうよ」
「今からじゃ、星は写らないと思いますよ」
「星じゃなくて、三人でってこと。記念に」
夏帆はそう言いながら、カメラを自撮りモードに切り替えた。
「相沢さん、真ん中来て」
「え、私が?」
「いいから、いいから」
彗は少し戸惑いながらも、私と夏帆の間に立った。
「はい、撮るよー」
夏帆の掛け声とともに、シャッター音が鳴る。
その瞬間、私は特に何も気にしていなかった。三人で笑い合いながら、屋上の手すりを背景に、何枚か写真を撮った。
撮影が終わると、夏帆はさっそく写真を確認し始めた。
「あ、これいい感じ」
画面をこちらに向けて見せてくれる。私と夏帆は、いつも通りの笑顔で写っていた。
けれど、彗の姿が――少しだけ、おかしかった。
「あれ……相沢さん、ちょっとぶれてる?」
夏帆が首をかしげた。
画面を覗き込むと、確かに彗の輪郭だけが、他の部分と比べて不自然にぼやけていた。まるで、動いている最中に撮影してしまったかのように。
「本当だ。動いちゃったんですね、相沢さん」
「あ……ごめん、ちょっと風で揺れたのかも」
彗はそう言って、少し慌てたように笑った。
「もう一枚、撮り直そうよ」
夏帆がそう提案して、私たちはもう一度、同じ場所で写真を撮った。
今度は確認しても、特に問題なく写っていた。
「良かった、今度はちゃんと撮れてる」
彗がほっとしたように言った。
「うん、可愛く撮れてるね」
夏帆はそう言いながら、写真をアルバムに保存した。
その場では、私もそれほど気にしていなかった。手ぶれというのは、よくあることだ。人物の動きが速いと、シャッタースピードによっては輪郭がぼやけて写ることもある。カメラの機能上、じゅうぶんにあり得る現象だった。
でも――。
その夜、家に帰ってから、夏帆が送ってくれた写真を改めて見返しているうちに、私はある違和感に気づいた。
最初の一枚。彗の姿だけが、まるで陽炎のように薄く滲んでいる。
その一方で、私と夏帆は、しっかりとピントが合っていて、輪郭もはっきりしていた。
けれど撮った瞬間、彗だけが大きく動いたようには見えなかった。それなのに、彗の部分だけが不自然にぼやけている。
私は写真を拡大して、じっくり観察した。
背景の手すりや、屋上のフェンスは、くっきりと写っている。動いているのはあくまで、彗の姿だけだった。
まるで、彗という存在そのものが、その一瞬だけ、この世界から少しだけずれてしまったかのような。
そんな、突拍子もない考えが頭をよぎった。
もちろん、そんなはずはない。きっと単純に、彗がわずかに動いた瞬間を、悪いタイミングで撮ってしまっただけなのだろう。
そう自分に言い聞かせようとしたけれど、心のどこかで、その説明にどうしても納得できない自分がいた。
☆
翌日、部室で彗と二人になったとき、私はその写真の話を切り出した。
「昨日の写真、見ました?」
「うん、夏帆ちゃんが送ってくれたやつだよね」
「彗だけ、ぶれてましたよね」
彗の表情が、一瞬だけ強張った。
「ああ、あれね。ちょっと動いちゃったみたい」
「でも、背景とか、私たちは、ちゃんと写ってたんです。彗だけ、なんです」
私はできるだけ冷静に、事実だけを伝えた。
彗は少しの間、答えを探すように視線を彷徨わせた。
「……カメラの、調子が悪かったんじゃない?」
「同じカメラで、二枚目はちゃんと写ってましたよ」
「そう、なんだ」
彼女の声は、いつもより硬かった。
「彗」
「うん」
「最近、ちょっとおかしいこと、多くないですか」
私は思い切って、その言葉を口にした。
「私には当たり前のことを、妙に珍しそうにしたり、電車に久しぶりに乗ったって言ったり。それに今度は、写真だけぶれてる」
「……」
「彗は、いったい――」
言いかけた私の言葉を、彗が遮った。
「遥」
「はい」
「ごめん。まだ、話せない」
その声には、これまで聞いたことのない、切実な響きがあった。
「何か、隠してることが、あるんですよね」
彗は少しの間、俯いたまま黙っていた。
窓の外から、蝉の声がまだ微かに聞こえてくる。夏の終わりが、確実に近づいている。
「うん。隠してること、ある」
ようやく、彼女はそう認めた。
「悪いことじゃないの。ただ、まだ、話すタイミングじゃないだけ」
「いつなら、話してくれるんですか」
「……もう少しだけ、待ってほしい」
彗はそう言って、私の目をまっすぐに見つめた。
「絶対に、いつかちゃんと話すから。今は、それだけ、信じてほしい」
その真剣な表情に、私はそれ以上、追及することができなかった。
「分かりました。待ちます」
「ありがとう」
彗は小さく息をついて、いつもの笑顔を取り戻そうとした。でも、その笑顔には、これまでにない疲れのようなものが滲んでいた。
その日の帰り道、私は一人で駅までの道を歩きながら、写真のことを何度も思い返していた。
彗のぼやけた輪郭。
まるで、この世界にしっかりと存在していないような、あの不安定な写り方。
もしかしたら、彗は本当に、何か普通ではない事情を抱えているのかもしれない。
その考えは、これまで私が抱いていた小さな違和感の数々を、一つの線で結びつけ始めていた。
教科書の知識だけで、実際の経験がまるでないこと。
当たり前の日用品に、いちいち驚くこと。
「昔から」「懐かしい」という、時系列のずれた言葉選び。
そして、私の未来について語るときの、あの妙な確信。
どれも単独では、ただの奇妙な癖として片付けられるものだったかもしれない。でも、それが積み重なっていくと、もはや偶然では説明できない何かが、そこにあるように思えてならなかった。
彗は、いったい何者なんだろう。
その問いが、これまでにない重さで、私の胸の中に居座り始めていた。
空を見上げると、夕暮れの色が、少しずつ夜の色へと変わっていくところだった。
いつも通りの景色のはずなのに、その日はなぜか、いつもより儚く見えた。
もうすぐ夏が終わる。




