第八話 夏の大三角と、初めての名前
八月最後の週末、私たちは電車とバスを乗り継いで、郊外の高原にある小さなキャンプ場へ向かった。
久世先生が見つけてくれた場所で、街灯りが少なく、夜になると天の川もよく見えるらしい。
今回は日帰りではなく、一泊二日の観測会だった。
学校からは電車とバスを乗り継いで一時間半ほどかかる。少し遠いけれど、私たちにとっては特別な遠出だった。
「こんなに遠くまで来たの、初めてかも」
バスの窓から流れる景色を見ながら、彗が呟いた。
「電車、久しぶりに乗った」
「久しぶり? 相沢さん、あんまり電車乗らないんですか」
「あ、うん……その、色々あって」
彼女はいつものように、曖昧に言葉を濁した。私はもう、そういう反応にすっかり慣れてしまっていた。
少し離れた席には、引率の久世先生も座っている。けれど先生は私たちの会話には口を挟まず、窓の外を眺めていた。
☆
バス停で降りると、目の前には見渡す限りの草原が広がっていた。遠くに山のシルエットが見え、街灯りらしきものはほとんどない。
「ここなら、天の川もはっきり見えそうですね」
「わあ……空が、こんなに広いんだ」
彗は両手を広げて、大きく深呼吸をした。
私たちは持ってきたレジャーシートを地面に敷いて、望遠鏡と双眼鏡の準備を始めた。日没まではまだ時間があったので、近くの小さな売店でパンとお茶を買い、簡単な夕食を済ませた。
「星、まだ見えないですね」
「うん。あとどれくらい?」
「あと一時間くらいで、暗くなり始めると思います」
「じゃあ、今夜は二人で楽しんでね」
久世先生はそう言って、少し離れた宿舎の方へ戻っていった。先生はそちらに泊まり、私と彗はキャンプ場に張ったテントでいっしょに一夜を過ごす予定になっている。
私たちは並んで草の上に寝転び、少しずつ色を失っていく空を眺めていた。
「遥」
「はい」
「ここに来られて、嬉しい」
「そんなに、ですか」
「うん。街中だと、どうしても明かりが邪魔するから」
彗はそう言いながら、空を見上げた表情に、いつになく穏やかな色があった。
「相沢さんの家の周りって、星、見えないんですか」
「……見えない。全然」
その答え方には、これまでにない重さがあった。
「そんなに明るいところに住んでるんですか」
「そういうわけじゃ、ないんだけど」
彗はそこで言葉を止めて、少し寂しそうに笑った。
「なんて言えばいいのか、うまく説明できない」
「無理に説明しなくていいですよ」
「ありがとう」
彼女は小さく息をついて、話題を変えるように空を指差した。
「あ、一番星」
東の空に、金星が輝き始めていた。
私たちはそれから、日が完全に暮れるまで、他愛のない話を続けた。学校の話、好きな食べ物の話、最近見た夢の話。
彗が語る話題には、時々、時代とずれたような違和感が混じっていたけれど、その日の私は、それをあまり気にしないようにしていた。ただ、彼女との時間を、素直に楽しみたかった。
空が完全に暗くなると、驚くほどの星空が広がった。
「……すごい」
彗は思わず、そう声を漏らした。
「これが、本当の夜空、なんだ」
その反応は、初めて出会った日と同じだった。あの日、屋上で見せた涙が、また彼女の頬を伝う。
「相沢さん、今日も泣いてるんですか」
「だって、こんなの……」
彼女は声を詰まらせながら、空を見上げ続けた。
「街の空じゃ、こんなに見えないから」
天の川が、頭上いっぱいに広がっている。淡い光の帯が、まるで空にかかった橋のように、地平線から地平線へと伸びていた。
「写真より、ずっと淡いんだね」
彗はそう呟きながら、その光を目に焼き付けるように見つめ続けた。
「はっきり見えないからこそ、綺麗なのかもしれません」
「うん、本当に」
私は望遠鏡を組み立てて、夏の大三角の位置を確認した。
「ベガ、アルタイル、デネブ。全部、はっきり見えますね」
「本当だ」
彗は望遠鏡を覗きながら、感嘆の声を上げた。
しばらく無言で夜空を見つめていた彼女が、ふいに口を開いた。
「ねえ、遥」
「はい」
「もし、私がいなくなったら、寂しい?」
唐突な質問に、私は驚いて彼女の方を見た。
「どうして、そんなこと聞くんですか」
「なんとなく。ちょっと、聞いてみたかっただけ」
彗はそう言いながら、まっすぐ夜空を見つめていた。その横顔には、これまで見たことのないような、深い寂しさが滲んでいた。
「寂しいに、決まってるじゃないですか」
私は正直な気持ちを口にした。
「相沢さんがいなくなったら、この夏の日々が、全部一人だけの記憶になっちゃう」
「一人だけの記憶」
「はい。誰とも分かち合えない、寂しいものになると思います」
彗は私の言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「そっか。なら、良かった」
「良かった、って」
「私がここにいた意味が、少しはあったんだなって」
その言い方に、私はまた妙な違和感を覚えた。まるで、いずれ自分がいなくなることを、あらかじめ知っているかのような。
「相沢さんは、どこにも行かないですよね」
私は少し不安になって、そう確認した。
「……うん、まだ、しばらくは」
彗の答えは、微妙に濁されていた。
「まだ、って」
「あ、ごめん。変なこと言った」
彼女は慌てたように誤魔化して、望遠鏡に視線を戻した。
「それより、他の星座も見てみようよ」
私はその話題を、それ以上追及することができなかった。
でも、心のどこかで、彼女の言葉の端々に潜む不安の種が、少しずつ大きくなっていくのを感じていた。
夜が更けるにつれ、星はさらに数を増していった。私たちは寝転んで、流れ星を探しながら、様々な星座について語り合った。
「彗座って、ないんですかね」
私が何気なく言うと、彗は驚いたように私を見た。
「彗座?」
「相沢さんの名前、彗、って書くから。彗星とか、彗座とか、あってもおかしくないなって」
「彗座は、ないよ。でも、彗星ならある」
「彗星、ですか」
「彗星って、一瞬だけ現れて、また遠くへ去っていく星のことでしょ」
彗はそう言いながら、少し寂しそうに笑った。
「私の名前、そういう意味なのかもね」
「一瞬だけ、なんて。相沢さんはずっとここにいますよ」
私はその寂しげな言い方を否定するように、そう言った。
彗は何も答えず、ただ穏やかに笑うだけだった。
その沈黙が、私にはやけに長く感じられた。
しばらくして、夜空の一角を、一筋の光が横切った。
「あ、流れ星!」
彗が声を上げた。
「願い事、言えました?」
「言えなかった……」
彼女は少し悔しそうに笑った。
「遥は?」
「私も、突然すぎて」
二人で顔を見合わせて、笑った。
その笑い声が、静かな高原に響いていく。
それからさらに時間が過ぎ、夜が深まった頃、私はふと、あることに気づいた。
これまで私は、彼女のことをずっと「相沢さん」と呼んでいた。彼女は最初から「遥」と呼んでくれていたのに。
その不均衡が、なぜか急に、居心地の悪いものに感じられた。
彼女がずっと望んでいたことに、私はまだ応えられていない。
深呼吸をして、私は勇気を出した。
「あの」
「うん?」
彗がこちらを向く。
夜空の光を反射して、彼女の瞳が、まるで星そのもののように輝いていた。
「……彗」
その名前が、思ったよりもすんなりと、口からこぼれた。
一瞬、彗の目が大きく見開かれた。
夜の静けさの中、彼女はしばらく、言葉を失ったように私を見つめていた。
「今……」
「はい」
「今、名前で、呼んでくれた」
その声は、かすかに震えていた。
「はい。ずっと、相沢さん、って呼んでたので。今更かもしれないですけど」
「ううん」
彗は首を振った。
そして、まるで花が咲くように、これまで見たことのない、心からの笑顔を見せた。
「嬉しい。本当に、嬉しい」
その笑顔を見て、私の胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「もう一回、呼んで」
「え?」
「もう一回、私の名前、呼んで」
その頼み方は、まるで子どものようだった。
私は少し照れながらも、もう一度その名前を口にした。
「彗」
「うん」
彗は嬉しそうに頷いて、私の隣にぴったりと寄り添った。
「これで、私たち、もっと近くなれた気がする」
「大げさですよ」
「大げさじゃないよ。名前を呼ぶって、すごく特別なことだから」
彗はそう言いながら、また夜空を見上げた。
その横顔には、これまでにないほどの安堵と、そして――ほんの少しの切なさが浮かんでいるように見えた。
でもそのときの私は、その切なさの意味を、まだ深く考えることをしなかった。
ただ、彼女の名前を呼んだことで生まれた、この温かい距離感を、素直に喜んでいた。
夜空には、相変わらず数えきれないほどの星が瞬いていた。
夏の大三角の下、私たちはいつまでも、他愛のない話を続けた。
その名前を呼んだ瞬間から、私たちの関係は、確かに何かが変わり始めていた。
それが「友達」という言葉では収まりきらない、もっと特別な何かへと。
ただ、彗の隣にいるこの時間が、かけがえのないものだということだけは、はっきりと分かっていた。
高原の夜は、静かに更けていった。
私たちはその夜、眠くなるまで、星空の下で語り合い続けた。
☆
翌朝、テントの外に出ると、高原には白い霧が薄く残っていた。
「昨日、本当にあんなに星が見えてたんだね」
彗はまだ名残惜しそうに空を見上げた。
高原を覆っていた薄い霧は、朝の光が強くなるにつれて、ゆっくりと透き通るような空気へと溶けていった。
「うん。嘘みたいに晴れてたね。……ほら、早く片付けないとバスに遅れちゃうよ」
「あ、待って、遥。この星空図鑑、夜露で濡れないようにしまわなきゃ」
私たちは結露で濡れたテントをたたみ、レジャーシートや機材をリュックに詰め直した。昨日、あれほど重く感じた荷物なのに、帰り支度をする今は、不思議と重さが気にならなかった。
高原の停留所で待っていると、遠くの坂道から、エンジン音を響かせて山岳バスが上ってきた。
プシュー、と小気味いい音を立てて開いたドアをくぐり、私たちは一番後ろの席に並んで腰を下ろす。
バスがゆっくりと発車し、窓の外に、昨日歩いた草原の緑が遠ざかっていく。
「もうすぐ終わっちゃうんだね、私たちの夏休み」
彗は窓ガラスに額を押し当てるようにして、小さく呟いた。その声には、朝の霧のような、どこか物寂しい響きが混ざっている。
「そうだね。でも、文化祭の準備もあるし、学校が始まっても天文部の活動は続くよ」
「うん、分かってる。分かってるんだけど……」
彗はそこで言葉を切り、膝の上に置いたリュックの紐を、ぎゅっと握りしめた。
車内には、私たちの他に数人の客がいるだけで、静かな揺れとエンジンの低い音だけが響いている。
やがて、山道を下る心地よい揺れに誘われるように、彗の頭がこくり、と小さく揺れた。
うとうととし始めた彼女の体が、カーブを曲がるたびに少しずつこちらへ傾いてくる。
ストン、と軽い重みが私の肩にかかった。
彗の規則正しい寝息が、耳元で小さく聞こえる。
肩に触れる彼女の体温は、この夏のうだるような暑さとは違う、とても心地よくて優しい温かさだった。
私は、彗を起こさないようにそっと体を固定したまま、窓の外を流れる景色を見つめた。
緑の山並みが、少しずつ見慣れた街の景色へと変わっていく。
(……彗)
昨日、初めて口にすることができた彼女の名前を、私は心の中で、もう一度だけそっと呼んでみた。
名前を呼べたからといって、彼女の抱える不思議な違和感が消えたわけではない。
それでも、私の肩に預けられているこの温もりだけは、間違いなく本物だった。
バスが駅前のロータリーに滑り込む頃には、ギラギラとした太陽が、アスファルトを白く照らし始めていた。
私たちの、特別な夏が終わりに近づいていた。




