第七話 未来の話をしない少女
夏休みも残り一週間ほどになった頃、天文部の活動に、思いがけない来客があった。
「遥、進路希望調査、もう考えた?」
部室に顔を出したのは、クラスメイトの宮原夏帆だった。ほんのり茶色がかった髪をひとつに束ねた、明るい雰囲気の子だ。天文部員ではないけれど、私が唯一クラスで気軽に話せる相手で、たまにこうして様子を見に来てくれる。
「あ、夏帆。まだ全然」
「二学期になったらすぐ出すんでしょ?」
「うん……」
夏休み前、担任の先生から、休みの間に進路について考えておくよう言われていた。けれど私は、まだ何一つ決められずにいた。
「遥は、何になりたいの?」
彗が興味深そうに会話に加わってきた。
「夏帆ちゃん、だっけ。遥のこと、よく知ってるんだね」
「まあ、一年からずっと同じクラスだからね。それより相沢さん、遥とすっかり仲良くなったんだね」
「うん。毎日一緒だから」
彗はそう言って、私の方を見て笑った。夏帆は少し意味深な視線をこちらに向けたけれど、それには気づかないふりをした。
「それで、遥。進路、決まったの?」
夏帆に改めて聞かれて、私は言葉に詰まった。
「……特に、まだ」
「またそれ? 遥、いつもそう言うよね」
夏帆は呆れたように笑った。
「星が好きなんだから、天文学とか、そういう方向にすればいいのに」
「そんな、簡単に言うけど」
私は俯きながら答えた。
「天文学を勉強したいと思っても、私にそんな才能があるとは思えないし。それに、天文学を学んだからって、それが仕事になるわけでもないし」
「才能とか、そういう問題じゃなくない? 好きなことをやればいいんだよ」
「夏帆は、いつもそう言うけど」
私にとって、それは簡単なことではなかった。
好きなことと、それを仕事にできることの間には、大きな隔たりがある。私は自分にそれを乗り越えられるだけの何かがあるとは、到底思えなかった。
夏帆が帰ったあと、部室には気まずい沈黙が残った。
「ごめんね、なんか、重い話になっちゃって」
彗がそう切り出した。
「いえ、別に。夏帆はいつもああいう感じなので」
「遥は、本当に、やりたいことがないの?」
その問いに、私は少し考えてから答えた。
「ないです。星は好きだけど、それを仕事にするなんて、想像もできない」
「どうして?」
「だって……私には、特別な才能なんてないし。ただ、星を見るのが好きなだけで」
「それって、じゅうぶんすごいことだと思うけど」
「相沢さんは、そう言ってくれるけど」
私は少し自嘲気味に笑った。
「実際、私は何も持ってないんです。勉強も普通、運動も苦手、話すことも下手。ただ夜空を見ているときだけ、自分が何かになれた気がするだけで」
「それだけで、じゅうぶんだと思う」
彗はまっすぐな目で、そう言い切った。
「好きなものがある、それがどれだけ価値のあることか、遥は分かってないんだと思う」
その言葉の重みに、私は少し戸惑った。
「じゃあ、相沢さんは、将来の夢、あるんですか」
私はその流れで、彗に同じ質問を返した。
その瞬間、彗の表情が一瞬固まった。
「……私?」
「はい。相沢さんは、何になりたいんですか」
彗はしばらく黙り込んだあと、曖昧に笑った。
「私は、特にないかな」
「本当ですか? 相沢さん、あんなに星に詳しいのに」
「詳しいのと、それを仕事にしたいかどうかは、別だから」
その答え方は、私の質問を巧妙にかわしているように聞こえた。
「じゃあ、大学とか、進学の予定は」
「うーん、まだ、分かんない」
彗の視線が、少し泳いだ。
「相沢さんの家って、どんな感じなんですか。ご両親のお仕事とか」
「あ……それは、その」
彼女は言葉を探すように、視線を彷徨わせた。
「今は、あんまり、話したくないかな」
「すみません、変なこと聞いて」
「ううん、いいの。ただ、まだ話せる段階じゃないだけ」
彗はそう言って、無理に笑顔を作った。
その笑顔には、いつもの明るさとは違う、何かを押し殺したような硬さがあった。
夕方になり、部室の窓から差し込む光がオレンジ色に変わり始めた頃、私たちは屋上に上がった。
まだ星が見えるには早い時間だったけれど、夕暮れの空を眺めるのも、私たちの日課の一つになっていた。
「遥」
彗がフェンスにもたれかかりながら、ぽつりと言った。
「はい」
「もし、遥が天文学の道に進んだら、どうなると思う?」
「どうって……分からないですよ、そんなの」
「私は、なんとなく、想像できる」
彗の声は、いつもより少し真剣だった。
「遥は、きっと、大学でも星のことを研究して。誰も見向きもしないような、地味な観測記録を、丁寧にコツコツ積み重ねていくと思う」
「そんな、決めつけないでください」
「決めつけてるんじゃなくて、なんとなく、そんな気がするだけ」
彗は空を見上げながら、続けた。
「遥はきっと、未来でも星を見てるよ」
その言葉に、私は少し違和感を覚えた。
「未来でも、って」
「あ……」
彗は自分の言葉に、はっとしたような顔をした。
「ごめん、変な言い方だったね。これから先も、っていう意味」
「そう、ですよね」
私はその場では、深く追及しなかった。
でも、その言い方は、まるで何かを確信しているかのような、不思議な響きを持っていた。「未来でも」という表現は、ただの推測にしては、あまりにも断定的だった。
「相沢さんって、たまに、変な言い方しますよね」
「そう、かな」
「まるで、私の未来を知ってるみたいな言い方をするときがある」
彗は少しの間、黙り込んだ。
夕暮れの風が、彼女の髪をふわりと揺らす。
「……知ってたら、いいなって思うことは、あるよ」
「それって、どういう意味ですか」
「うーんとね」
彗は少し困ったように笑った。
「遥がずっと、星を好きでいてくれたらいいなって、そう思ってるってこと」
その答えは、質問に正面から答えているようで、どこか巧妙にすり替えられているようにも感じられた。
「相沢さんは、私の未来のこと、何か知ってるんですか」
私はもう一度、直接的にそう尋ねた。
彗は少しの沈黙のあと、ゆっくりと首を振った。
「知らないよ。誰にも、未来なんて分からない」
その答え方には、どこか無理に自分に言い聞かせているような響きがあった。
私はその言葉を、それ以上疑うことができなかった。彼女の目には、確かに嘘をついているようには見えない、真剣な光があったから。
でも同時に、その言葉の奥に、何か大きな秘密が隠されているような気がしてならなかった。
空はいつの間にか、オレンジ色から深い紺色へと変わり始めていた。一番星が、東の空にぽつりと灯る。
「あ、見えた」
彗が指差した方向に、私も目を向けた。
「金星、ですね」
「一番星だ」
彗はその光を、まるで祈るように見つめていた。
「ねえ、遥」
「はい」
「今、願い事するとしたら、何をお願いする?」
突然の質問に、私は少し戸惑った。
「そうですね……天文部が、廃部にならないこと、でしょうか」
「それだけ?」
「あとは……相沢さんと、これからもずっと、星を見られたらいいな、って」
自分でも驚くほど、素直な言葉がこぼれた。
彗は一瞬、目を見開いて、それから泣きそうな顔で笑った。
「私も、それがいい」
「相沢さんは、何をお願いしたんですか」
「秘密」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。
一番星の光は、まだ小さく、頼りなく瞬いていた。
☆
その夜、家に帰ってからも、私は彗の言葉が頭から離れなかった。
「遥はきっと、未来でも星を見てるよ」
その言葉の確信めいた響きが、なぜか胸の奥に、小さな棘のように残り続けていた。




