第六話 君と過ごす、何でもない夏
夏休みの後半になっても、私と彗の日課は変わらなかった。
むしろ、学校がない分、二人で過ごす時間は増えていた。
「おはよう、遥」
朝十時、駅前で待ち合わせをすると、彗はいつも元気よく手を振ってくる。
「早いですね」
「早く来て、少しでも長く一緒にいたいから」
そういう言葉を、彼女は照れもせずにさらっと口にする。そのたびに私は、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
夏休みの天文部の活動は、主に観測記録の整理だった。
久世先生から「せっかく夏休みだから、歴代の記録をデータ化してみたら」と提案されたのがきっかけだった。段ボール箱にぎっしり詰まった古いノートを、一冊ずつ読み解いてパソコンに打ち込んでいく。
地味で、正直なところ、あまり楽しい作業ではない。
けれど、彗と一緒にやると、それが不思議と苦にならなかった。
「これ、字が達筆すぎて読めない」
彗が古いノートを覗き込みながら、困った顔をする。
「昭和のノートは、癖字が多いんですよね」
「昭和って、遥は詳しいの?」
「詳しいというか、部活の資料室にある本で少し勉強しただけです」
私はそう答えながら、彗の隣に座り、一緒に文字を読み解いていった。
「あ、これ、たぶん『しし座流星群』って書いてある」
「へえ……昔から、みんな星を見てたんだね」
彗はしみじみとそう呟いた。
その言い方が、また少し引っかかった。「昔から」という表現には、まるで今は違うというニュアンスが含まれているように聞こえた。
でも、その日はそれ以上、深く考えることはしなかった。
パソコンでの作業に一区切りついたところで、私たちは昼食を買いに、学校近くのコンビニへ向かった。
夏の日差しが強い。アスファルトから立ち上る熱気が、肌にじりじりと感じられる。
「暑いですね」
「うん。でも、久しぶりの外の暑さって、なんか嬉しい」
「暑いのが、嬉しいんですか」
「暑いって、生きてるって感じがするから」
彗はそう言って、額の汗を拭った。
私は少しだけ首を傾げた。
コンビニに入ると、彗はいつものように店内をゆっくり見て回った。
冷凍食品やお菓子の棚を、ひとつひとつ確かめるように眺めている。
「相沢さんって、普段、どんなお菓子食べてるんですか」
私が何気なく尋ねると、彗は一瞬言葉に詰まった。
「え、と……あんまり、お菓子とか、食べないかな」
「そうなんですか。意外です」
「うん、まあ……色々あって」
彼女は曖昧に言葉を濁して、話題を変えるように、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出した。
会計を済ませて店を出るとき、彗は自動ドアの前で少し立ち止まった。
「これ、ちゃんと人が近づくのを待ってから開くんだね」
「え、それは……普通のことだと思いますけど」
「うん。でも、こういう仕組み、なんか懐かしくていいね」
「そうですか?」
「私のところだと……いや、何でもない」
彼女はまた言葉を飲み込み、私の返事を待たずに歩き出した。
その背中を見ながら、私は小さく首を傾げた。
彗はときどき、私には当たり前のものを、どこか珍しそうに見る。
☆
学校に戻ったものの、部室は蒸し暑かった。私たちは昼食を持って、校舎脇の木陰のベンチへ移動した。
「遥は、将来何になりたいの?」
唐突な質問に、私は箸を止めた。
「特に、何も」
「何も?」
「星が好き、というだけで。それを仕事にできるほどの才能もないですし」
私はいつものように、自分を卑下するように答えた。
「そんなことないと思うけどな」
「相沢さんは、優しいですね」
「優しいんじゃなくて、本当にそう思ってるだけ」
彗はまっすぐに私を見て言った。
「遥は、毎日ちゃんと観測記録をつけてるでしょ。あれ、すごく丁寧で、きちんとしてて。誰にでもできることじゃないと思う」
「そんな、ただの記録ですよ」
「ただの記録が、いつか誰かの役に立つかもしれないよ」
その言葉には、妙な確信がこもっていた。
「誰かの役に、ですか」
「うん。今は分からないだけで」
彗はそう言って、視線を空に向けた。
私はその横顔を見ながら、なんとなく、彼女がただの励ましとしてそう言っているのではないような気がした。
その日、部室での作業を終えて帰り道を歩きながら、私はふと立ち止まった。
「相沢さん」
「うん?」
「相沢さんって、ときどき、私には当たり前のことを珍しそうにしますよね」
彗の表情が、一瞬強張った。
「……そう、かな」
「相沢さんって、本当は、どこから来たんですか」
その質問を口にした瞬間、彗の顔から、すっと笑顔が消えた。
夕暮れの光が、彼女の横顔を橙色に染めている。その表情は、これまで見たことのないほど穏やかで、そして寂しげだった。
「……いつか、ちゃんと話すから」
彗はそう言って、また視線を逸らした。
「今は、まだ」
「話せない理由が、あるんですか」
「うん。でも、悪いことじゃないから。安心して」
彼女は無理に笑顔を作って、そう付け加えた。
「ただ、今はまだ、遥にこの夏を、普通に楽しんでほしいから」
その言葉の意味を、私はそのときまだ理解できなかった。
でも、彼女がこれ以上追及されたくないと思っていることだけは、痛いほど伝わってきた。
「分かりました。無理には聞きません」
「ありがとう」
彗は少しほっとしたように息を吐いた。
☆
その夜、家に帰ってから、私はベッドに横になりながら、今日までのことを振り返った。
彗の不思議な反応の数々。
知識はあるのに、経験がないという矛盾。
「昔から」「懐かしい」という、時系列のずれた言葉選び。
そして何より、私の将来について語るときの、あの妙な確信。
どれも、単なる偶然や、彼女の個性として片付けるには、少し無理がありすぎる気がした。
でも、それ以上に強く感じていたのは、別の感情だった。
私にとって、ただの退屈な夏休みだったはずの日々が、彗という存在によって、まるで別のものに変わっていく感覚。
古い観測記録の整理も、コンビニでの買い物も、何でもない帰り道も。
彼女がそこにいて、驚いたり、喜んだり、時には寂しそうな顔をするだけで、私にとって当たり前だった景色が、途端に特別なものに見えてくる。
それはきっと、私にとっても初めての感覚だった。
自分の日常が、誰かにとってこんなにも意味のあるものになり得るなんて、これまで考えたこともなかった。
窓の外に見える星を眺めながら、私はぼんやりと思った。
彗はいったい、何を抱えているんだろう。




