第五話 曇り空の観測会
その日は、朝から嫌な予感がしていた。
自宅の窓から見える空には、うっすらとした雲が広がっていた。天気予報のアプリを開くと、夜の降水確率は二十パーセント。数字だけ見ればたいしたことはないはずなのに、私はなぜか胸騒ぎを感じていた。
午後遅く、部室で観測の準備をしていると、彗が窓の外を見上げた。
「今日、新月ですよね」
「はい。天の川がよく見えるはずの日です」
「楽しみにしてたのに」
彗は少し不安げな表情を浮かべた。
「大丈夫、夕方には晴れるかもしれません」
私は根拠のない励ましを口にした。けれど心の中では、その可能性が薄いことを、経験的に理解していた。
夏の天気は変わりやすい。特に、湿った空気が流れ込んでいる日は、夕方から急激に雲が増えることが多い。
そして今日に限って、その嫌な予想は当たってしまった。
夕方近くには、空は完全に灰色に覆われていた。
やがて、部室の窓に大きな雨粒がぽつぽつと当たり始めた。
「……降ってきましたね」
「うん」
彗の声には、隠しきれない落胆が滲んでいた。
ほどなくして、雨は本降りになった。窓ガラスを叩く雨音が、やけに大きく聞こえる。
「今日は、観測は無理そうです」
私はそう言いながら、望遠鏡のケースに手をかけようとした――が、結局その手を止めた。
開けたところで、意味がない。
「せっかく、新月だったのに」
彗は窓の外を見つめながら、小さく呟いた。
その横顔には、これまで見たことのない種類の落胆があった。単なる残念さというより、もっと深い、何かを取り逃がしたような、そんな表情。
「相沢さん」
「うん?」
「そんなに、天の川、見たかったんですか」
彗は少しの間黙ってから、ゆっくりと頷いた。
「見たかった」
「また今度、晴れた日に見ましょう」
「今度って、いつ?」
その問いには、思ったよりも切実な響きがあった。
「新月は月に一度なので……来月、ですかね」
「来月」
彗はその言葉を繰り返して、小さく息をついた。
「一ヶ月後まで、待つしかないんだ」
「まあ、満月に近くても、条件が良ければ見える日もありますけど」
「それでも、今日ほどじゃないんだよね」
「そうですね……新月の日が、一番きれいに見えます」
彗は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
私はその様子を見て、なんとなく責任を感じてしまった。もちろん天気は誰にもコントロールできないことだけれど、彗をこんなにがっかりさせてしまったことが、申し訳なく思えた。
「相沢さん、今日は帰りましょうか。雨、強くなってきましたし」
私がそう言うと、彗は急に顔を上げた。
「ねえ、遥」
「はい」
「屋上、行かない?」
「え? でも、雨降ってますよ」
「屋根のあるところなら、大丈夫でしょ」
屋上には、給水塔のそばに、雨をしのげる小さな屋根付きのスペースがあった。普段は誰も使わない場所だけれど、そこなら濡れずに過ごせる。
「別に、行っても、星は見えないですよ」
「いいの。ちょっと、行きたいだけ」
彼女の目には、なぜか強い意志のようなものが宿っていた。
仕方なく、私は彼女について屋上へ向かった。
扉を開けると、雨が地面を叩く音が一気に大きくなった。私たちは急いで軒下に駆け込む。
目の前に広がるのは、灰色一色の空。星どころか、月の位置さえ分からない。
彗はその軒下の床に、躊躇なく座り込んだ。
「濡れますよ、床」
「別に、いいよ」
彼女は膝を抱えて、じっと雲に覆われた空を見上げた。
私も仕方なく、彼女の隣に腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。雨音だけが響く、静かな時間だった。
「ねえ、遥」
やがて彗が口を開いた。
「今、あの雲の向こうに、何があると思う?」
「星、ですよね」
「うん」
「見えないだけで」
「そう」
彗は少しだけ微笑んだ。
「見えないだけで、なくなったわけじゃない」
その言葉は、あまりにも当たり前のことのはずだった。
雲があるからといって、星がその瞬間だけ消えてしまうわけではない。ただ、地上から見えなくなっているだけ。
当たり前すぎて、私はこれまで、その事実をわざわざ言葉にしたことがなかった。
「星が見えなくても、星がなくなったわけじゃない」
彗は繰り返すように、もう一度そう言った。
「今日、天の川が見られなかったのは、悲しいよ。でも、天の川がこの世界から消えたわけじゃない。ちゃんと、あそこにある」
彼女は雲の一点を指差した。実際には、その指の先に何があるのかなんて、見えるはずもなかった。
「明日も、あさっても、ちゃんとそこにある。私たちが見られる日まで、待っていてくれる」
その言葉に、私は少し驚いた。
さっきまで、あんなに落胆していたはずなのに。
「相沢さん、さっきまで、すごく残念そうだったのに」
「うん、残念だったよ。今でも、残念」
彗は正直にそう答えた。
「でも、悲しいのと、絶望するのとは、違うから」
「違う、ですか」
「見られなかったことは悲しい。でも、見られる可能性がなくなったわけじゃないから、絶望はしない」
彼女はそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
「見られなくなる日が来るまでは、まだ、希望があるから」
その言い方に、私はまた小さな違和感を覚えた。
「見られなくなる日が来るまで」というのは、まるで、いつか本当に見られなくなる日が来ることを、あらかじめ知っているような言い方だった。
「相沢さん、その言い方――」
「あ、ごめん。ちょっと大げさだったね」
彗はすぐに誤魔化すように笑って、話題を変えた。
「それより、遥はどう思う? 今夜、こうやって星が見えなかったこと」
「悔しい、です」
「悔しい?」
「せっかくの新月だったのに。それに、相沢さんが、あんなに楽しみにしてたのに」
私は素直な気持ちを口にした。
「私が晴れさせられたら、良かったんですけど」
彗はその言葉に、くすっと笑った。
「遥って、真面目だね」
「真面目、ですか」
「うん。自分にはどうしようもないことまで、責任を感じちゃうところ」
その指摘は、正直、図星だった。
私はいつも、うまくいかないことがあると、自分の力不足のように感じてしまう。観望会に人が来なかったのも、今日星が見られなかったのも、本当は誰のせいでもないのに。
「でも、私は嬉しいよ」
彗が唐突にそう言った。
「え?」
「今日、星は見られなかったけど、遥と一緒に、こうやって雲を見上げてる時間も、悪くないなって思って」
その言葉に、私は思わず彼女の方を見た。
彼女は雨に濡れた夜空を見つめながら、穏やかに微笑んでいた。
「星がなくても、遥がいてくれれば、それでいいのかもしれない」
その一言が、私の胸の奥に、じんわりと染み込んでいくのを感じた。
これまで私にとって、夜空を見上げる時間は、誰かと分かち合うものではなかった。一人で望遠鏡を覗き、一人で記録をつけ、一人で満足する。それが当たり前だった。
でも今、彗という存在がいることで、星が見えない夜でさえ、こんなにも意味のある時間に変わっている。
「相沢さん」
「うん?」
「今日は、星は見られなかったですけど」
「うん」
「また、今度、必ず見に行きましょう」
彗は少し驚いたように私を見て、それからゆっくりと頷いた。
「うん。約束」
その「約束」という言葉が、また少しだけ、私の心に引っかかった。
彼女が口にする「約束」には、いつもどこか儚い響きが伴っている気がした。
雨は、しばらく降り続いた。
私たちは軒下に座ったまま、見えない星の位置を想像しながら、他愛のない話を続けた。
好きな食べ物のこと。苦手な教科のこと。夏休みの予定のこと。
どれも些細な話題だったけれど、その一つ一つが、少しずつ私たちの距離を縮めていった。
やがて雨が小降りになった頃、私たちは濡れないうちにと、屋上を後にした。
部室に戻り、傘を借りて帰る準備をしていると、彗がふと窓の外を見上げて言った。
「明日は、晴れるといいね」
「そうですね」
「でも、たとえ曇っても、私は大丈夫」
彼女はそう言って、いつもの明るい笑顔を見せた。
「星が見えなくても、星がなくなったわけじゃないから」
その言葉を、私は胸に深く刻んだ。




