第四話 名前で呼ぶにはまだ遠い
八月も半ばに差しかかると、私たちの日常には、いつの間にか決まった形ができ始めていた。
午後遅く、部室に集合。
まずは望遠鏡の点検と掃除。
空が晴れていれば屋上で観測、曇っていれば部室で星図を広げる。
久世先生の許可を取って、夜まで残って観測する日もある。
ある日、部室で私は望遠鏡の鏡筒を丁寧に台の上に横たえた。
埃を払い、専用のクロスでレンズを拭く。彼女はその隣にしゃがみこんで、興味深そうに私の手元を見つめていた。
「これ、対物レンズ?」
「そうです。ここが汚れてると、像がぼやけて見えるので」
「へえ……綺麗にすると、そんなに変わるものなんだ」
「見比べてみますか」
私は掃除前と掃除後で見え方を確認できるよう、月を導入した。
彼女は接眼レンズを覗き込んで、小さく声を上げた。
「わあ……全然、違う」
「でしょう」
「遥は、こういうの得意なんだね」
「得意というか、他にすることがなかったので」
私は少し自嘲気味に笑った。
部員が私一人だった頃は、望遠鏡の手入れも、観測記録の整理も、すべて一人でやるしかなかった。それが今は、隣で誰かが見てくれている。
それだけのことが、こんなにも嬉しいなんて、知らなかった。
「ねえ、遥」
掃除を終えて、望遠鏡を片付けていると、彗がふいに真剣な顔をした。
「なんですか」
「ずっと思ってたんだけど」
彼女は少し言葉を選ぶように、間を置いた。
「私、遥のこと、遥って呼んでもいい?」
その質問に、私は一瞬手を止めた。
「今も、そう呼んでますよね」
「あ、そっか。ごめん、癖で」
彼女は少し慌てたように笑った。
言われてみれば、彼女は最初から私のことを「遥」と呼んでいた。初対面のときも、それ以降も、ずっと。
それに対して私は、まだ彼女のことを「相沢さん」としか呼んだことがなかった。
「じゃあ、聞き方を変える」
彗は、少し悪戯っぽく笑った。
「遥は、私のこと、彗って呼んでくれる?」
その質問には、思ったよりも重みがあった。
「え、と……」
「ダメ?」
「ダメじゃ、ないですけど」
名前で呼ぶ、という行為が、私にはやけに大きなハードルに感じられた。
クラスメイトのことすら、なかなか下の名前で呼べない。
「その、急には難しいというか」
「そっか」
彗は、少しだけ肩を落とした。
でも、それはすぐに元の笑顔に戻った。
「じゃあ、ゆっくりでいいよ。私は、遥って呼ぶけど」
「はい……すみません」
「謝ることじゃないよ」
彼女はそう言いながら、望遠鏡ケースの持ち手を持った。
でもその横顔には、ほんの少しだけ、寂しさのようなものが滲んでいた気がした。
部室を出るとき、彼女はふと呟いた。
「名前で呼ぶって、不思議だよね」
「不思議、ですか」
「うん。ただの音のはずなのに、誰かがそれを口にしてくれるだけで、なんだか、自分の存在が認められたような気がするから」
彗は少し笑った。
「だから遥も、いつか呼んでね」
「いつか?」
「そのときは、ちゃんと聞いてるから」
☆
帰り道は、必ずと言っていいほど、駅前のコンビニに寄るようになった。
「今日は何にする?」
自動ドアをくぐりながら、彗が聞いてくる。この質問も、もうすっかり恒例になっていた。
「今日は、あずきバーで」
「私、これにする」
彼女が選んだのは、いつものソーダ味のアイスバーだった。彼女は毎回、律儀に迷ったふりをしてから、結局同じものを選ぶ。
「相沢さんって、これしか食べないですよね」
「だって、美味しいから」
「別に、他のも美味しいと思いますよ」
「でも、これが一番好き」
彼女はレジに向かいながら、少し得意げに笑った。
店員さんが会計をする様子すら、彼女はどこか物珍しそうに見ていることがあった。ICカードで払うときも、レシートが自動で印字される瞬間も、まるで初めて見るもののように。
「相沢さんって、コンビニ、あんまり来ないんですか」
ある日、私はふとそう尋ねてみた。
「え? どうして?」
「なんか、いちいち感動してるみたいだから」
彼女は一瞬固まって、それから誤魔化すように笑った。
「そんなことないよ。ただ、遥と一緒に来るのが、楽しいだけ」
その答え方は、いつも上手だった。核心には触れず、でも嘘とも言い切れない、絶妙な言葉選び。
私はそれ以上、深く聞かなかった。
店を出て、夕暮れの道を並んで歩く。
自動販売機の光、遠くの踏切の音、生ぬるい風。
何気ない景色のはずなのに、隣に誰かがいるというだけで、その景色は驚くほど違って見えた。
「ねえ、遥」
アイスバーの包装を剥がしながら、彗が言った。
「なんですか」
「今日の望遠鏡の掃除、面白かった」
「面白いですか、あれ」
「うん。遥がやってること、もっといろいろ見てみたい」
「地味な作業ばっかりですよ」
「それでも、見てみたい」
彼女は無邪気にそう言って、アイスを一口かじった。
名前で呼んでほしいと言われてから、私は少しずつ、彼女を名前で呼ぶ練習をするようになった。
もちろん、本人の前ではなく、頭の中でだけ。
「彗さん」「彗ちゃん」「彗」――何度も呼び方を試しては、しっくりくる形を探した。でも実際に口に出そうとすると、なぜか喉の奥で言葉が詰まってしまう。
名前を呼ぶという、ただそれだけのことが、こんなにも難しいなんて。
☆
数日後、午後の部室で、私たちは翌週に予定している観測計画を立てていた。
「来週、新月だから、天の川がよく見えるはずです」
「楽しみ」
彗は星図を広げながら、嬉しそうに笑った。
「相沢さんは、天の川、ちゃんと見てみたいですか」
「うん。この前見たのは、すごく淡かったから」
「新月なら、もう少し見やすいと思います」
「そっか。楽しみ」
彗は少しだけ笑った。
「遥と一緒に見たい」
その言葉には、ただの期待以上の何かがこもっているように聞こえた。
まるで、天の川を見ることが、彼女にとって特別な意味を持つ出来事であるかのように。
窓の外はもう暗くなり始めていた。
私は星図をノートに写しながら、ふと彼女の横顔を見た。
彼女はいつも笑っている。でも時折、その笑顔の奥に、何か寂しさのようなものが透けて見えることがある。
それが何なのか、私にはまだ分からなかった。
ただ、その正体を知りたいという気持ちが、少しずつ私の中で大きくなっていくのを感じていた。
「遥」
「はい」
「早く、名前で呼んでね」
彗は悪戯っぽく笑いながら、そう言った。
「頑張ります」
「約束だよ」
夏の夜は、まだゆっくりと更けていく。
私たちの間の距離は、少しずつ、けれど確実に縮まっていた。




