↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いつか、届かない星に名前をつけるなら  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/23

第三話 白紙の星空図鑑

 天文部の部室は、いつも独特の匂いがする。

 古い紙と、埃と、少しだけかび臭い段ボール箱の匂い。長年誰にも整理されずに積み重なった時間の匂いだと、私は勝手に思っている。

 彗が入部してから一週間。

 私たちは毎日のように部室に集まって、観測の準備をしたり、古い機材を点検したりして過ごしていた。

 その日は朝から雨で、夜も曇り空が続くという予報だった。星は見られない。

 仕方なく、私たちは部室で古い観測記録の整理をすることにした。

「これ、何年前のノートだろう」

 彗が、段ボール箱の底から一冊の古いノートを取り出した。表紙には、色あせたインクで「観測記録 昭和六十三年度」と書かれている。

「すごい、こんな昔から続いてるんですね、この部活」

「歴史だけは長いんです。部員が少ないだけで」

 私は苦笑しながら、別の箱を開けた。

 そのとき、彗のスクールバッグから、何かが滑り落ちた。

「あ」

 小さな声を上げて、彼女は慌ててそれを拾おうとした。けれど私の方が近くにいて、先に手を伸ばしてしまった。

 拾い上げたのは、一冊の本だった。

 古びた革張りの表紙。角がすり減っていて、かなり使い込まれているのが分かる。表紙には、金の箔押しで文字が刻まれていた。

『星空図鑑』

 凝った装丁だった。市販の図鑑にしては、あまりに手が込んでいる。

「これ、相沢さんの?」

「あ、うん……その、大事なものだから」

 彼女は少し焦った様子で、私の手から本を取り返そうとした。

 でも、その拍子に本のページが少しめくれて、中身がちらりと見えてしまった。

「……あれ?」

 私は思わず、めくれたページに目を留めた。

 白い。真っ白なページが、そこにあった。

「相沢さん、これ」

「あ、いや、それは」

「見ても、いいですか」

 彼女は一瞬迷うような顔をしたけれど、やがて小さく頷いた。観念したような表情だった。

 私はゆっくりと、その図鑑を開いた。

 表紙には確かに『星空図鑑』とある。目次には、季節ごとの星座や、惑星の解説、有名な天体現象の一覧まで、丁寧な項目立てがされていた。

 でも――。

 ページをめくっても、めくっても、ほとんど何も描かれていない。

 時折、タイトルだけが印刷されたページはあった。「夏の大三角」「北斗七星」「秋の四辺形」。けれど、その下にあるはずの解説や図は、真っ白なまま。

 まるで、まだ誰も書き込んでいない、未完成のノートのようだった。

「これ……どうして、白紙なんですか」

 私は素直に疑問をぶつけた。

 彗は、少しの間、何も答えなかった。

 窓の外で、雨が屋根を叩く音だけが響いていた。

「……昔、もらったものなんだけど」

 やがて、彼女はぽつりと話し始めた。

「本当は、ちゃんと中身が埋まってる図鑑、だったの」

「埋まってた?」

「うん。でも、私が持ってるこれは、まだ何も書かれてない状態のもの。だから、白紙なんだと思う」

 その説明は、あまりにも要領を得なかった。

「意味が、よく分からないです」

「ごめん、うまく説明できなくて」

 彗は、困ったように笑った。その笑顔は、いつもの明るい彼女とは少し違って見えた。

 どこか、無理をしているような。

「大事なもの、なんですよね」

「うん。すごく」

「なのに、中身が白紙のままなのは、寂しくないですか」

 その問いに、彗は少しだけ目を伏せた。

「寂しい、かな」

「私だったら、寂しいです」

 私は正直にそう言った。

 せっかく大切に持っているものの中身が、何もない。それはきっと、期待していたものが手に入らなかったときのような、虚しさを伴うんじゃないかと思った。

 しばらく沈黙が続いたあと、私は思いついたことを口にした。

「だったら」

「え?」

「私たちで、埋めればいいんじゃないですか」

 彗は、驚いたように顔を上げた。

「二人で見つけた星座とか、天体現象とか。それを、少しずつこの図鑑に書き込んでいくんです。相沢さんが持ってた『本当の図鑑』とは違うかもしれないけど、それでも――」

 私は少し言葉を選びながら、続けた。

「白紙のままより、いいと思います」

 彗は、しばらく黙って私を見つめていた。

 その目に、じわりと涙の膜が張るのが見えた。

「……いいの?」

「はい」

「勝手に、書き込んじゃって」

「相沢さんさえよければ」

 彼女は何度か瞬きをして、涙をこらえるように笑った。

「うん。お願いしたい」

 彗は白紙のページをそっと撫でて、図鑑を閉じた。


          ☆


 その週末の夜、久しぶりに空が晴れた。

 私たちは屋上で望遠鏡を並べ、夏の大三角を観測した。

「ベガ、アルタイル、デネブ」

 彗は望遠鏡越しに見える星々の位置を確認しながら、指でその形をなぞった。

「本当に、三角なんだね」

 その言葉は、初めて会った日と同じだった。けれど今度は、涙ではなく、笑顔とともに紡がれた。


 観測が終わったあと、私たちは部室に戻って、図鑑の「夏の大三角」のページを開いた。

 私は星の配置と、その日の日付、観測条件を書き込んだ。

「相沢さんも、何か書いてみますか」

「うん」

 彗は少し緊張した様子でペンを握り、

『初めて、本物の三角を見た日。ずっと忘れない』

 と書いた。

「……なんだか、観測記録っぽくないですね」

「いいじゃん。私たちの図鑑なんだから」

 そう言って、彗はページの隅に、もう一行書き足した。

『遥は星の説明になると、ちょっと早口になる』

「ちょっと、それは消してください」

「やだ」

「天体と関係ないじゃないですか」

「あるよ。これも今日の観測記録」

 彗は図鑑を胸元に引き寄せて、楽しそうに笑った。

 結局、その一行は消さずに残った。

 誰かと一緒に、白紙のページを埋めていくという行為が、こんなにも温かいものだとは思わなかった。

 次のページには「北斗七星」。その次には「カシオペヤ座」。

 私たちは晴れた夜のたびに屋上へ上がり、見つけた星座を一つずつ図鑑に書き込んでいった。曇った日は部室にこもって、星図を広げながら次に観測する天体の予習をした。

 図鑑のページは、少しずつ、少しずつ埋まっていく。

 白紙だったページに、私たちの夏が刻まれていく。

 彗は相変わらず、教科書的な知識には詳しいのに、実際に星を見るたびに新鮮な驚きを見せた。その落差は、時間が経っても解消されなかった。

 でも私は、その理由を深く追及しなかった。

 いや、正確には――追及するのが、少し怖かったのかもしれない。

 この不思議な女の子との時間が、あまりにも心地よかったから。

 その理由を知ってしまったら、この時間が何か違うものに変わってしまうんじゃないかという、根拠のない予感があった。

 部室の窓の外で、秋の虫が鳴いている。

 夏はまだ、始まったばかりのはずだった。

 けれど私はどこかで、この夏がいつまでも続くわけではないことを、うっすらと感じ取っていたのかもしれない。

 白紙だった図鑑のページが埋まっていくたびに、私たちの間には、確かな何かが積み重なっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。