第三話 白紙の星空図鑑
天文部の部室は、いつも独特の匂いがする。
古い紙と、埃と、少しだけかび臭い段ボール箱の匂い。長年誰にも整理されずに積み重なった時間の匂いだと、私は勝手に思っている。
彗が入部してから一週間。
私たちは毎日のように部室に集まって、観測の準備をしたり、古い機材を点検したりして過ごしていた。
その日は朝から雨で、夜も曇り空が続くという予報だった。星は見られない。
仕方なく、私たちは部室で古い観測記録の整理をすることにした。
「これ、何年前のノートだろう」
彗が、段ボール箱の底から一冊の古いノートを取り出した。表紙には、色あせたインクで「観測記録 昭和六十三年度」と書かれている。
「すごい、こんな昔から続いてるんですね、この部活」
「歴史だけは長いんです。部員が少ないだけで」
私は苦笑しながら、別の箱を開けた。
そのとき、彗のスクールバッグから、何かが滑り落ちた。
「あ」
小さな声を上げて、彼女は慌ててそれを拾おうとした。けれど私の方が近くにいて、先に手を伸ばしてしまった。
拾い上げたのは、一冊の本だった。
古びた革張りの表紙。角がすり減っていて、かなり使い込まれているのが分かる。表紙には、金の箔押しで文字が刻まれていた。
『星空図鑑』
凝った装丁だった。市販の図鑑にしては、あまりに手が込んでいる。
「これ、相沢さんの?」
「あ、うん……その、大事なものだから」
彼女は少し焦った様子で、私の手から本を取り返そうとした。
でも、その拍子に本のページが少しめくれて、中身がちらりと見えてしまった。
「……あれ?」
私は思わず、めくれたページに目を留めた。
白い。真っ白なページが、そこにあった。
「相沢さん、これ」
「あ、いや、それは」
「見ても、いいですか」
彼女は一瞬迷うような顔をしたけれど、やがて小さく頷いた。観念したような表情だった。
私はゆっくりと、その図鑑を開いた。
表紙には確かに『星空図鑑』とある。目次には、季節ごとの星座や、惑星の解説、有名な天体現象の一覧まで、丁寧な項目立てがされていた。
でも――。
ページをめくっても、めくっても、ほとんど何も描かれていない。
時折、タイトルだけが印刷されたページはあった。「夏の大三角」「北斗七星」「秋の四辺形」。けれど、その下にあるはずの解説や図は、真っ白なまま。
まるで、まだ誰も書き込んでいない、未完成のノートのようだった。
「これ……どうして、白紙なんですか」
私は素直に疑問をぶつけた。
彗は、少しの間、何も答えなかった。
窓の外で、雨が屋根を叩く音だけが響いていた。
「……昔、もらったものなんだけど」
やがて、彼女はぽつりと話し始めた。
「本当は、ちゃんと中身が埋まってる図鑑、だったの」
「埋まってた?」
「うん。でも、私が持ってるこれは、まだ何も書かれてない状態のもの。だから、白紙なんだと思う」
その説明は、あまりにも要領を得なかった。
「意味が、よく分からないです」
「ごめん、うまく説明できなくて」
彗は、困ったように笑った。その笑顔は、いつもの明るい彼女とは少し違って見えた。
どこか、無理をしているような。
「大事なもの、なんですよね」
「うん。すごく」
「なのに、中身が白紙のままなのは、寂しくないですか」
その問いに、彗は少しだけ目を伏せた。
「寂しい、かな」
「私だったら、寂しいです」
私は正直にそう言った。
せっかく大切に持っているものの中身が、何もない。それはきっと、期待していたものが手に入らなかったときのような、虚しさを伴うんじゃないかと思った。
しばらく沈黙が続いたあと、私は思いついたことを口にした。
「だったら」
「え?」
「私たちで、埋めればいいんじゃないですか」
彗は、驚いたように顔を上げた。
「二人で見つけた星座とか、天体現象とか。それを、少しずつこの図鑑に書き込んでいくんです。相沢さんが持ってた『本当の図鑑』とは違うかもしれないけど、それでも――」
私は少し言葉を選びながら、続けた。
「白紙のままより、いいと思います」
彗は、しばらく黙って私を見つめていた。
その目に、じわりと涙の膜が張るのが見えた。
「……いいの?」
「はい」
「勝手に、書き込んじゃって」
「相沢さんさえよければ」
彼女は何度か瞬きをして、涙をこらえるように笑った。
「うん。お願いしたい」
彗は白紙のページをそっと撫でて、図鑑を閉じた。
☆
その週末の夜、久しぶりに空が晴れた。
私たちは屋上で望遠鏡を並べ、夏の大三角を観測した。
「ベガ、アルタイル、デネブ」
彗は望遠鏡越しに見える星々の位置を確認しながら、指でその形をなぞった。
「本当に、三角なんだね」
その言葉は、初めて会った日と同じだった。けれど今度は、涙ではなく、笑顔とともに紡がれた。
観測が終わったあと、私たちは部室に戻って、図鑑の「夏の大三角」のページを開いた。
私は星の配置と、その日の日付、観測条件を書き込んだ。
「相沢さんも、何か書いてみますか」
「うん」
彗は少し緊張した様子でペンを握り、
『初めて、本物の三角を見た日。ずっと忘れない』
と書いた。
「……なんだか、観測記録っぽくないですね」
「いいじゃん。私たちの図鑑なんだから」
そう言って、彗はページの隅に、もう一行書き足した。
『遥は星の説明になると、ちょっと早口になる』
「ちょっと、それは消してください」
「やだ」
「天体と関係ないじゃないですか」
「あるよ。これも今日の観測記録」
彗は図鑑を胸元に引き寄せて、楽しそうに笑った。
結局、その一行は消さずに残った。
誰かと一緒に、白紙のページを埋めていくという行為が、こんなにも温かいものだとは思わなかった。
次のページには「北斗七星」。その次には「カシオペヤ座」。
私たちは晴れた夜のたびに屋上へ上がり、見つけた星座を一つずつ図鑑に書き込んでいった。曇った日は部室にこもって、星図を広げながら次に観測する天体の予習をした。
図鑑のページは、少しずつ、少しずつ埋まっていく。
白紙だったページに、私たちの夏が刻まれていく。
彗は相変わらず、教科書的な知識には詳しいのに、実際に星を見るたびに新鮮な驚きを見せた。その落差は、時間が経っても解消されなかった。
でも私は、その理由を深く追及しなかった。
いや、正確には――追及するのが、少し怖かったのかもしれない。
この不思議な女の子との時間が、あまりにも心地よかったから。
その理由を知ってしまったら、この時間が何か違うものに変わってしまうんじゃないかという、根拠のない予感があった。
部室の窓の外で、秋の虫が鳴いている。
夏はまだ、始まったばかりのはずだった。
けれど私はどこかで、この夏がいつまでも続くわけではないことを、うっすらと感じ取っていたのかもしれない。
白紙だった図鑑のページが埋まっていくたびに、私たちの間には、確かな何かが積み重なっていった。




