第二話 星を知らない天文少女
翌朝、部室に向かう途中で、私は正直、昨夜のことを半分夢だったんじゃないかと疑っていた。
見知らぬ女の子が屋上に現れて、星を見て泣いて、そのまま天文部に入ると言い出す。
冷静に考えれば、かなり不自然な出来事だった。
けれど、部室の扉を開けると、そこにはもう彼女がいた。
「おはよう、遥」
彗は、机の上に置かれた古い星図帳を、興味深そうにめくっていた。
窓から差し込む光の中で見る彼女は、昨夜よりもずっと現実味があって、それがかえって不思議だった。
「あの……本当に、来たんですね」
「言ったでしょ。天文部に入るって」
彼女は当然のように答えて、机の上に一枚の紙を差し出した。
入部届。
名前の欄には、几帳面な字で「相沢彗」と書かれていた。
「もう書いてきたんですか」
「善は急げ、でしょ」
その笑顔には迷いがなかった。
久世先生に見せると、細いフレームの眼鏡の奥で、少し驚いたように目を丸くしたあと、すぐに柔らかく微笑んだ。
「星住さん、良かったわね。ずっと一人だったから」
「はい……」
私は素直に頷きながらも、まだどこか現実感が薄かった。
こんなに急に、しかも初対面同然の相手が、部員になる。
それも、あんなふうに星を見て涙を流すような人が。
私は彗に部室の中を案内した。
古い望遠鏡が三台。使われなくなった赤道儀。歴代の観測ノートが詰まった段ボール箱。
どれも私にとっては見慣れた景色だったけれど、彗はその一つ一つを、まるで博物館の展示物を見るような目で眺めていた。
「これ、屈折式だよね。焦点距離は――」
彗は望遠鏡の筒を覗き込みながら、迷いなく専門用語を口にした。
「詳しいですね」
「まあ、それなりに」
「天文部に入ったことあるんですか、前の学校で」
「ううん、初めて」
その答えに、私は少し戸惑った。
初めてにしては、知識が豊富すぎる。
星座の名前も、惑星の公転周期も、光年という単位が示す途方もない距離感覚も、彼女は当たり前のように語ることができた。まるで教科書を丸ごと暗記してきたみたいに。
なのに――。
その日の夜、私たちは初めて二人で観測を行うことになった。
空は珍しく晴れていて、絶好の条件だった。
「今日は、夏の大三角を見てみましょうか」
私がそう言うと、彗は目を輝かせた。
「夏の大三角って、こと座のベガと、わし座のアルタイル、それから、はくちょう座のデネブだよね」
「そうです、よく知ってますね」
「授業で習ったから」
彼女はそう言って、少し得意げに笑った。
私は望遠鏡の向きを調整しながら、肉眼で見える位置を指差した。
「あの明るい星がベガ。少し下に、アルタイル。そして、はくちょうの翼を広げたような形の中に、デネブ」
彗は私の指の先を、真剣な表情で追った。
しばらく無言で夜空を見上げていた彼女は、やがて小さく息を漏らした。
「……本当に、三角なんだ」
「え?」
「三角って、言葉だけは知ってたけど。本当に、三つの点を結んだら三角に見えるんだね」
その言葉に、私は妙な違和感を覚えた。
「知識としては、知ってたんですよね?」
「うん。教科書には、そう書いてあった」
彗はそう答えながら、まだどこか呆然としたように空を見上げていた。
「でも、実際に見るのと、知ってるのとは、全然違うんだね」
その言い方が、私にはどうしても引っかかった。
まるで、教科書でしか星座を知らない人が、初めて本物を見たときのような、そんな反応だった。
けれど彗の口から語られる知識は、教科書レベルをはるかに超えている。恒星の色と表面温度の関係も、連星系の軌道計算も、彼女はよどみなく説明できた。
知識は、専門家並み。
でも、実際に星を見た経験は、まるでゼロ。
その落差が、あまりにも大きすぎた。
「相沢さんって、変わってますね」
思わずそう漏らすと、彗は一瞬、びくりと肩を揺らした。
「……変、かな」
「悪い意味じゃなくて。ただ、珍しいなって」
「そう、だよね」
彗は曖昧に笑って、それ以上は何も言わなかった。
その夜はそれから、天の川の位置や、流れ星の探し方について話しながら、二時間ほど夜空を見上げ続けた。
彗は、私が教える一つ一つの言葉に、まるで初めて聞くことのように驚いた。
「天の川って、写真で見るより、ずっと淡いんだね」
「ああ、写真は長時間露光して明るく撮ってるので」
「そうなんだ。実物は、こんなに繊細なんだ」
その驚き方は、演技には見えなかった。
少なくとも、私にはそう感じられた。
誰かがこれほど純粋に、星の美しさに心を動かされているのを見るのは、生まれて初めてだった。
私はこれまで、星を見るのはいつも一人だった。
誰かと感動を分かち合うということが、こんなに温かい気持ちになるものだとは、知らなかった。
「ねえ、遥」
「はい」
「明日も、一緒に見てくれる?」
「もちろんです。天文部の活動なので」
「そうじゃなくて」
彗は少し言葉を選ぶように、間を置いた。
「遥と、一緒に見たいから」
その言い方に、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
部活動としてではなく、私と一緒に見たい。
そう言われたのは、初めてだった。
「……はい。一緒に、見ましょう」
答えると、彗は花が咲くように笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
この子が抱えている違和感の正体は、まだ分からない。
教科書の知識だけで、実際の星を見たことがないような、その不自然さも。
初対面のはずなのに、私の名前をうっかり呼び慣れていたような、あの一瞬も。
でも、それを今すぐ問い詰めようとは思わなかった。
ただ、この子と一緒に星を見る時間が、悪くないと感じている自分がいることだけは、確かだった。
部員一人だった天文部は、今日から二人になった。
たった一人増えただけなのに、屋上の景色は昨日までとまるで違って見えた。
空は同じ星を映しているはずなのに、隣に誰かがいるというだけで、こんなにも夜が違って感じられるのだと、私は初めて知った。




