第一話 流星群の夜に、君は現れた
星を見るのに、友達はいらない。
望遠鏡が一台あって、雲がなくて、空が暗ければ、それでじゅうぶんだ。
ずっと、そう思っていた。
少なくとも――高校二年の夏、あの子に出会うまでは。
「……やっぱり、誰も来ないか」
八月の夜。
私、星住遥は校舎の屋上で、誰も座っていないパイプ椅子を見渡した。
今日はペルセウス座流星群の観望会。廃部寸前の天文部をどうにか残すため、校内にポスターまで貼って、クラスでも勇気を振り絞って宣伝した。
結果。参加者、ゼロ。
「まあ……星は見えるし」
自分に言い聞かせるように呟いて、風で乱れた黒髪を耳にかけながら、私は望遠鏡へ目を戻した。
天文部は、三年前までは五人の部員がいたらしい。けれど卒業や退部で人数は減り続け、今では私一人になっていた。
顧問の久世先生は、部員が足りなくても廃部届を出そうとはしなかったけれど、それも今年度いっぱいの話だ。学校の統廃合が噂され始めてから、部活動の予算はどんどん削られている。天文部のような、地味で目立たない部活が真っ先に切られるのは分かりきっていた。
だから今夜の観望会は、いわば最後の抵抗だった。
誰か一人でも、星を見て「面白い」と言ってくれたら。
それだけで、続ける理由になる気がしていた。
けれど現実は甘くない。
夏休み中で、みんな部活や補習、遊びの予定なんかで忙しい。そもそも夜九時に学校の屋上に集まるという時点で、ハードルが高すぎたのかもしれない。
パイプ椅子を三十脚も並べたのは、明らかに見栄だった。
風が吹くたびに、空っぽの椅子がカタカタと音を立てる。それがやけに大きく聞こえて、私は少しだけ泣きたくなった。
「まあ、いい。星は、見る人がいなくても光ってる」
誰かに聞かせるためではなく、自分を励ますための独り言。
私は接眼レンズを覗き込み、視界の中心にペルセウス座を捉えた。
放射点のあたりから、時折すっと光の筋が走る。
誰も見ていなくても、確かにそこにある光。
それがずっと、私の支えだった。
クラスでは、話すのが得意じゃない。
グループを作るとき、いつも一呼吸遅れて余る側になる。私自身、それを気にしないふりをするのが上手くなっただけで、本当は気にしていないわけがなかった。
将来の夢は、と聞かれても答えられない。得意なことも、好きなことも、星以外に思いつかない。けれど星を見ているときだけは、自分がここにいてもいい、という気がした。
誰かに認められるためじゃなく、ただそこに、確かに存在していい。
夜空はいつも、そう言ってくれる気がしていた。
スマホの時計を見る。九時十五分。
もう誰も来ないだろう。
観望会という名目はもう終わったようなものだけど、せっかく望遠鏡を出したのだからと、私はもうしばらく屋上に残ることにした。
流星群は、放射点付近だけを見ていても仕方ない。空全体をぼんやり眺めているほうが、思いがけない場所を長く尾を引いて流れる、あの瞬間に出会える。
仰向けに寝転がるには、屋上のコンクリートは硬すぎたから、私はパイプ椅子を一つだけ残して、そこに座り直した。
風がぬるい。
蝉の声はもうとっくに止んで、代わりに秋の虫が遠くで鳴き始めている。
八月は始まったばかりなのに、夏の終わりが、少しずつ忍び寄っているのが分かる。
このまま、この部活も終わっていくんだろうか。
そう思ったとき。
「ねえ」
背後から、知らない声がした。
振り返る。
屋上の扉の前に、見覚えのない女の子が立っていた。
同じ学校の制服。同じくらいの年齢。なのに、なぜかとても遠い場所から来た人のように見えた。
薄い茶色がかった髪が、屋上の照明を受けて、少しだけ銀色に光る。夜だというのに、その瞳はやけにはっきりと私を捉えていた。
いや――正確には、私を見ているようで、見ていなかった。彼女の視線は、私の頭上を通り過ぎて、その向こうに広がる夜空へと吸い込まれていく。
「あの、観望会は、もう終わって……」
私がそう言いかけたとき、少女は小さく息を呑んだ。
夜空を見上げたまま、動かなくなる。
まばたきすら、忘れているように見えた。
「……本当に」
震える声で、そう呟いた。
「本当に、星ってこんなにあるんだ」
その頬を、一筋の涙が流れた。あまりに唐突な涙に、私は言葉を失った。
誰かがこんなふうに、初めて星を見る子どもみたいに星空へ驚く姿を、私は今まで見たことがなかった。
夏の大三角も、天の川の淡い帯も、私にとってはずっと当たり前にそこにあるものだった。毎晩見上げて、毎晩ノートに記録して、それが日課になっていた。
だから、こんなふうに涙を流すほど星に感動する人がいるということが、うまく想像できなかった。
「あの……大丈夫、ですか?」
おそるおそる声をかけると、少女はようやく私の方を見た。
涙を拭うでもなく、少し照れたように笑う。
「ごめん、変だよね。急に泣いたりして」
「いえ……」
「久しぶりに見たから。こんなに、たくさん」
久しぶりに、という言い方が引っかかった。
高校生が「星を見るのが久しぶり」なんて言うのは、都会育ちで機会がなかったとか、そのくらいの意味だろうと、私は思った。
「あの、望遠鏡、覗いてみますか」
なぜそんな提案をしたのか、自分でもよく分からない。
ただ、これほど星に心を動かされる人を前にして、何もしないでいるのは惜しい気がした。
少女は目を輝かせて頷いた。
「いいの?」
「はい。せっかく持ってきたので」
私は望遠鏡の向きを調整して、月のクレーターがよく見える角度に合わせた。
少女は言われるまま接眼レンズに顔を寄せ――そして、大きく息を吸い込んだ。
「……すごい。凸凹まで、はっきり見える」
「月は近いので、初心者向けなんです」
「初心者かどうかは、分からないけど」
その言い方が、少し引っかかった。
でも、深く考える前に、少女は接眼レンズから顔を上げて、まっすぐに私を見た。
「ねえ、名前、教えてくれる?」
「星住です。星住、遥」
そう名乗った瞬間、少女の表情がほんの一瞬だけ強張った気がした。
けれどそれは本当に一瞬で、すぐにいつもの明るい笑みに戻る。
「遥――」
まるで、ずっと前から知っている名前を呼ぶように、その言葉は自然にこぼれた。
「え?」
私が聞き返すと、少女は少しだけ目を泳がせた。
「あ……ごめん。星住さん、だよね」
言い直しながら、彼女はどこか誤魔化すように笑った。
初対面のはずなのに、まるで長年呼び慣れた名前を、うっかり口にしてしまったような。そんな違和感が、胸の奥に小さく残った。
でも、それを追及するには、私はまだ彼女のことを何も知らなかった。
「相沢、彗」
少女はそう名乗った。
「同じ学年? 同じクラスじゃないよね」
「隣のクラスだと思う。たぶん、初めて話すね」
相沢さんは、そう言いながらもう一度夜空を見上げた。
その横顔は、さっきまで涙を流していたとは思えないほど穏やかで、けれどどこか――今にも消えてしまいそうな、頼りなさをまとっていた。
「相沢さんは、天文とか興味あるんですか」
「うん、すごく」
迷いのない即答だった。
「でも、望遠鏡で見るのは、初めて?」
「……本物を見るのは、初めて、かな」
本物、という言葉の選び方が、また少し引っかかった。
まるで、それ以外の星を、どこかで見たことがあるような言い方だった。
「相沢さんって、天文部に入ってたりします?」
「ううん。どこの部にも入ってない」
彼女は少し寂しそうに笑った。
「だったら――」
言いかけて、私は自分でも驚いた。
誘おう、と思ったのだ。
人付き合いが苦手な私が、今日会ったばかりの相手を。
でも、この子が星を見て流した涙は、本物だった。少なくとも、それだけは信じられる気がした。
「天文部、来ませんか。人数が足りなくて、今年度で廃部になりそうなんです」
相沢さんは、目を丸くした。それから、まるで長い間探していたものをようやく見つけたような、そんな表情で笑った。
「入る」
迷いも、遠慮も、何もなかった。
「私、天文部に入る」
夜空の下、私たちはまだ、お互いの名前しか知らなかった。
彼女が何者なのかも、どうしてあんなふうに星を見て泣いたのかも、私はまだ何も知らない。
ただ、屋上に一人だった私の部活に、今夜、もう一人の部員が増えたことだけは確かだった。
風が吹く。
パイプ椅子が、カタカタと乾いた音を立てる。
その音さえも、さっきまでとは違って聞こえた。
空っぽだった観望会に、たった一人だけ増えた観客。
それだけのことで、夜空はいつもより、少しだけ賑やかに見えた。
流星群はまだ続いている。
時折、放射点から離れた場所を、すっと光が横切っていく。
彗は、そのたびに小さく声を上げて喜んだ。
まるで、これが最初で最後の夜であるかのように。




