第二十二話 私だって、来年がほしかった
時計の針は、零時まであと十五分を指していた。
部室の中は、彗が作った小さなプラネタリウムの光だけが、静かに天井を流れ続けていた。本物の星は、相変わらず厚い雲の向こうに隠れたままだった。
「彗」
「うん?」
私は、これまで何度も飲み込んできた言葉を、もう抑えることができなかった。
「来年も、本物を見ようねって、さっき言いましたよね」
「うん」
「あれ、本当は、叶わない約束ですよね」
彗の表情が、微かに強張った。
「遥……」
「私、分かってるんです。彗がいなくなっちゃうこと。もう、戻ってこられないかもしれないこと」
涙が、こらえきれずに溢れ出した。
「それでも、来年の約束を口にしちゃう自分が、情けなくて」
「遥、それは」
「もう、嘘つけない」
私は、震える声で、その言葉を絞り出した。
「来年じゃなくていい。明日じゃなくていい」
私は、彗の手を、強く握りしめた。
「今ここにいてよ。ずっと、ここにいてよ」
その言葉を口にした瞬間、これまでずっと平静を装おうとしていた自分の心が、完全に崩れ落ちるのを感じた。
彗は、私の言葉を聞いて、しばらく私を見つめていた。
やがて、これまで見せたことのないほど、ずっと笑っていたその表情が、初めて大きく崩れた。
「私だって……」
彗の声が、大きく震えた。
「私だって」
彼女は、堪えきれずに涙を流し始めた。
「私だって、来年が、ほしかったよ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
これまで彗は、いつも笑顔で、強がりながら、この別れの現実を受け止めようとしてきた。でも今、その仮面が、完全に外れていた。
「百年後の未来から来た少女としてじゃなくて」
彗は、涙をぼろぼろとこぼしながら、続けた。
「何もかも受け入れた、特別な存在としてでもなくて」
「彗……」
「ただの、十六歳の女の子として」
彼女の声は、これまでにないほど、剥き出しの感情に満ちていた。
「もっと、遥と星を見たかった」「来年の夏も、また遥と、あの何でもない日々を過ごしたかった」「高校も、卒業したかった」
彗は、一つ一つの願いを、まるで胸の奥から絞り出すように、口にしていった。
「好きな人の隣で」
その言葉に、私は心臓が大きく跳ねるのを感じた。
「一年後の約束を、本当に楽しみにしてみたかった」
彗は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私をまっすぐに見つめた。
「遥、私、ずっと、強がってた。未来のこと、全部受け入れたふりをして。でも、本当は」
「本当は?」
「本当は、怖くて、たまらなかった」
その告白に、私は彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
「消えてしまうかもしれないことも、遥と離れ離れになることも。全部、怖くて、仕方なかった」
「彗」
「でも、それを見せたら、遥がもっと悲しむと思って。だから、ずっと、笑ってた」
彗の声は、もう震えを抑えられないほどになっていた。
「もう、隠すの、疲れちゃった」
私は、涙を流しながら、彗の手を、両手でしっかりと包み込んだ。
「彗、無理しなくて、いいです」
「遥……」
「今だけは、強がらなくていいです」
その言葉に、彗は堪えきれずに、大きく泣き崩れた。
「彗」
「うん」
「私、彗のことが」
私は、これまでずっと言葉にできなかった感情を、必死に伝えようとした。
「彗のことが、大切です。すごく、大切です」
「私も」
彗は、涙を拭いながら、答えた。
「私も、遥のことが、大切」
「あなたがいなくなるのが」
私は、彗の目をまっすぐに見つめて、続けた。
「誰より、嫌です」
彗は、その言葉に深く頷いた。
「私も、遥と離れるのが、一番嫌」
時計の針は、零時まで、あと五分を指していた。
その事実が、部室の空気を、さらに重く、切なくしていった。
「彗」
「うん」
「消えるまで、ずっと、手を握っていていいですか」
「うん」
彗は、涙を流しながら、深く頷いた。
「ずっと、握ってて」
私たちは、しっかりと手を握り合ったまま、天井を流れる偽物の流星群の光を、見上げ続けた。
時計の針が、少しずつ、残酷なまでに正確に、零時へと近づいていく。
「遥」
彗が、穏やかに私を呼んだ。
「はい」
「ありがとう」
「何が、ですか」
「私を、天文部に誘ってくれて」
彗は涙を流しながら、優しく微笑んだ。
「私に、本物の星空を、見せてくれて」
「彗」
「私に、名前を呼んでくれて」
その一言一言が、私の胸に、深く刻み込まれていった。
「遥と過ごした、この五ヶ月間が」
彗の声は震えながらも、確かな真実を伝えようとしていた。
「私の人生で、一番、幸せな時間だった」
その言葉に、私は嗚咽をこらえきれなくなった。
「そんなの……そんなの、私だって、同じです」
「うん」
「彗と過ごした時間が、私にとっても、一番大切な時間でした」
私たちは涙を流しながら、お互いの手を、さらに強く握りしめた。
時計の針が、零時まで、あと一分を指していた。
「彗」
「うん」
「最後に、一つだけ、いいですか」
「うん、なに?」
私は震える声で、これまでずっと胸に秘めてきた言葉を口にした。
「私、彗のことが、好きです」
その告白に、彗は大きく目を見開いた。
やがて、涙を流しながら、心からの笑顔を見せた。
「私も」
彗の声は、これまでのどの言葉よりも、はっきりとしていた。
「私も、遥のことが、好き」
その瞬間、部室の外から、遠く微かに、鐘の音が聞こえ始めた。
新しい年の訪れを告げる、除夜の鐘の音。
その音とともに、彗の身体が、淡い光に包まれ始めた。
「彗!」
私は、彼女の手を、必死に握りしめようとした。
でも、その手は、少しずつ、光の中に溶けていくように、薄れていった。
「遥」
彗の声が、遠くから響くように聞こえた。
「これ、返すのは、来年でいいから」
彗は、白紙のページが残ったままの星空図鑑を、最後の力を振り絞るように、私の手に押しつけた。
「彗、待って」
「ありがとう、遥」
彗の姿は、光に包まれながら、少しずつ透明になっていった。
「大好きだよ」
その言葉を最後に、彗の姿は、完全に光の中に消えていった。
除夜の鐘の音が、静かに響き続ける中、部室には私一人だけが取り残されていた。
手の中には、まだ彼女の手の温もりの残像と、白紙のページが残る星空図鑑だけがあった。
私はその図鑑を、強く胸に抱きしめた。
最後まで、彗は、ありもしない約束を残していった。
「これ、返すのは、来年でいいから」
その言葉が、彼女らしい、最後の優しい嘘だったのか。それとも、本当に何か意味のある約束だったのか。
私には、まだ分からなかった。
部室の窓の外には、相変わらず厚い雲が広がり、本物の星は、一つも見えなかった。
でも、天井に描かれた偽物の流星群だけが、彗がいなくなった後も、静かに光を放ち続けていた。
新しい年が、こうして始まった。
彗のいない一年が。
私は涙が枯れるまで、その場に座り込んだまま、動くことができなかった。
図鑑を抱きしめながら、私はただ、彼女の最後の言葉を、何度も何度も、心の中で繰り返し続けた。
「大好きだよ」
その言葉だけが、これから訪れる長い喪失の時間を、支える唯一の光になるのだった。




