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いつか、届かない星に名前をつけるなら  作者: 明石竜


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22/23

第二十二話 私だって、来年がほしかった

 時計の針は、零時まであと十五分を指していた。

 部室の中は、彗が作った小さなプラネタリウムの光だけが、静かに天井を流れ続けていた。本物の星は、相変わらず厚い雲の向こうに隠れたままだった。

「彗」

「うん?」

 私は、これまで何度も飲み込んできた言葉を、もう抑えることができなかった。

「来年も、本物を見ようねって、さっき言いましたよね」

「うん」

「あれ、本当は、叶わない約束ですよね」

 彗の表情が、微かに強張った。

「遥……」

「私、分かってるんです。彗がいなくなっちゃうこと。もう、戻ってこられないかもしれないこと」

 涙が、こらえきれずに溢れ出した。

「それでも、来年の約束を口にしちゃう自分が、情けなくて」

「遥、それは」

「もう、嘘つけない」

 私は、震える声で、その言葉を絞り出した。

「来年じゃなくていい。明日じゃなくていい」

 私は、彗の手を、強く握りしめた。

「今ここにいてよ。ずっと、ここにいてよ」

 その言葉を口にした瞬間、これまでずっと平静を装おうとしていた自分の心が、完全に崩れ落ちるのを感じた。

 彗は、私の言葉を聞いて、しばらく私を見つめていた。

 やがて、これまで見せたことのないほど、ずっと笑っていたその表情が、初めて大きく崩れた。

「私だって……」

 彗の声が、大きく震えた。

「私だって」

 彼女は、堪えきれずに涙を流し始めた。

「私だって、来年が、ほしかったよ」

 その言葉に、私は息を呑んだ。

 これまで彗は、いつも笑顔で、強がりながら、この別れの現実を受け止めようとしてきた。でも今、その仮面が、完全に外れていた。

「百年後の未来から来た少女としてじゃなくて」

 彗は、涙をぼろぼろとこぼしながら、続けた。

「何もかも受け入れた、特別な存在としてでもなくて」

「彗……」

「ただの、十六歳の女の子として」

 彼女の声は、これまでにないほど、剥き出しの感情に満ちていた。

「もっと、遥と星を見たかった」「来年の夏も、また遥と、あの何でもない日々を過ごしたかった」「高校も、卒業したかった」

 彗は、一つ一つの願いを、まるで胸の奥から絞り出すように、口にしていった。

「好きな人の隣で」

 その言葉に、私は心臓が大きく跳ねるのを感じた。

「一年後の約束を、本当に楽しみにしてみたかった」

 彗は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私をまっすぐに見つめた。

「遥、私、ずっと、強がってた。未来のこと、全部受け入れたふりをして。でも、本当は」

「本当は?」

「本当は、怖くて、たまらなかった」

 その告白に、私は彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。

「消えてしまうかもしれないことも、遥と離れ離れになることも。全部、怖くて、仕方なかった」

「彗」

「でも、それを見せたら、遥がもっと悲しむと思って。だから、ずっと、笑ってた」

 彗の声は、もう震えを抑えられないほどになっていた。

「もう、隠すの、疲れちゃった」

 私は、涙を流しながら、彗の手を、両手でしっかりと包み込んだ。

「彗、無理しなくて、いいです」

「遥……」

「今だけは、強がらなくていいです」

 その言葉に、彗は堪えきれずに、大きく泣き崩れた。

「彗」

「うん」

「私、彗のことが」

 私は、これまでずっと言葉にできなかった感情を、必死に伝えようとした。

「彗のことが、大切です。すごく、大切です」

「私も」

 彗は、涙を拭いながら、答えた。

「私も、遥のことが、大切」

「あなたがいなくなるのが」

 私は、彗の目をまっすぐに見つめて、続けた。

「誰より、嫌です」

 彗は、その言葉に深く頷いた。

「私も、遥と離れるのが、一番嫌」

 時計の針は、零時まで、あと五分を指していた。

 その事実が、部室の空気を、さらに重く、切なくしていった。

「彗」

「うん」

「消えるまで、ずっと、手を握っていていいですか」

「うん」

 彗は、涙を流しながら、深く頷いた。

「ずっと、握ってて」

 私たちは、しっかりと手を握り合ったまま、天井を流れる偽物の流星群の光を、見上げ続けた。

 時計の針が、少しずつ、残酷なまでに正確に、零時へと近づいていく。

「遥」

 彗が、穏やかに私を呼んだ。

「はい」

「ありがとう」

「何が、ですか」

「私を、天文部に誘ってくれて」

 彗は涙を流しながら、優しく微笑んだ。

「私に、本物の星空を、見せてくれて」

「彗」

「私に、名前を呼んでくれて」

 その一言一言が、私の胸に、深く刻み込まれていった。

「遥と過ごした、この五ヶ月間が」

 彗の声は震えながらも、確かな真実を伝えようとしていた。

「私の人生で、一番、幸せな時間だった」

 その言葉に、私は嗚咽をこらえきれなくなった。

「そんなの……そんなの、私だって、同じです」

「うん」

「彗と過ごした時間が、私にとっても、一番大切な時間でした」

 私たちは涙を流しながら、お互いの手を、さらに強く握りしめた。

 時計の針が、零時まで、あと一分を指していた。

「彗」

「うん」

「最後に、一つだけ、いいですか」

「うん、なに?」

 私は震える声で、これまでずっと胸に秘めてきた言葉を口にした。

「私、彗のことが、好きです」

 その告白に、彗は大きく目を見開いた。

 やがて、涙を流しながら、心からの笑顔を見せた。

「私も」

 彗の声は、これまでのどの言葉よりも、はっきりとしていた。

「私も、遥のことが、好き」

 その瞬間、部室の外から、遠く微かに、鐘の音が聞こえ始めた。

 新しい年の訪れを告げる、除夜の鐘の音。

 その音とともに、彗の身体が、淡い光に包まれ始めた。

「彗!」

 私は、彼女の手を、必死に握りしめようとした。

 でも、その手は、少しずつ、光の中に溶けていくように、薄れていった。

「遥」

 彗の声が、遠くから響くように聞こえた。

「これ、返すのは、来年でいいから」

 彗は、白紙のページが残ったままの星空図鑑を、最後の力を振り絞るように、私の手に押しつけた。

「彗、待って」

「ありがとう、遥」

 彗の姿は、光に包まれながら、少しずつ透明になっていった。

「大好きだよ」

 その言葉を最後に、彗の姿は、完全に光の中に消えていった。

 除夜の鐘の音が、静かに響き続ける中、部室には私一人だけが取り残されていた。

 手の中には、まだ彼女の手の温もりの残像と、白紙のページが残る星空図鑑だけがあった。

 私はその図鑑を、強く胸に抱きしめた。

 最後まで、彗は、ありもしない約束を残していった。

「これ、返すのは、来年でいいから」

 その言葉が、彼女らしい、最後の優しい嘘だったのか。それとも、本当に何か意味のある約束だったのか。

 私には、まだ分からなかった。

 部室の窓の外には、相変わらず厚い雲が広がり、本物の星は、一つも見えなかった。

 でも、天井に描かれた偽物の流星群だけが、彗がいなくなった後も、静かに光を放ち続けていた。

 新しい年が、こうして始まった。

 彗のいない一年が。

 私は涙が枯れるまで、その場に座り込んだまま、動くことができなかった。

 図鑑を抱きしめながら、私はただ、彼女の最後の言葉を、何度も何度も、心の中で繰り返し続けた。

「大好きだよ」

 その言葉だけが、これから訪れる長い喪失の時間を、支える唯一の光になるのだった。

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