最終話 いつか、届かない星に名前をつけるなら
一年が経った。
彗が消えたあの夜から、季節は巡り、私は高校三年生になっていた。
学校の統廃合は予定通り進み、私たちが通っていた校舎は、今年度いっぱいで閉校することが決まっていた。在校生は既に、隣町の統合先の校舎で授業を受けている。この古い校舎に残っているのは、卒業式までの手続きに関わる一部の職員と、こうして最後の思い出を見に来る、わずかな在校生と卒業生だけだった。
十二月三十一日。
あの夜からちょうど一年後の、大晦日。
私は久世先生から特別に鍵を借りて、閉校を目前にした旧校舎を訪れていた。
「本当に、一人で大丈夫?」
先生は、屋上への扉の前で、心配そうに私を見た。
「はい。少しだけ、ここで過ごしたいんです」
「分かったわ。でも、寒いから、無理はしないでね」
先生はそう言って、鍵を私に手渡してくれた。
屋上への扉を開けると、そこには一年前と変わらない、静かな夜の景色が広がっていた。
天文部は、もう存在しない。
久世先生が最後まで部の存続を模索してくれたけれど、部員が集まらず、私が卒業する前に、正式に廃部が決定していた。あの小さな望遠鏡も、観測ノートの数々も、今は資料室の隅でひっそりと眠っている。
それでも私はこの一年間、星から離れることはなかった。
彗と別れてから一週間ほどして始まった三学期。その初めに提出する進路希望調査には、迷わず天文学科のある大学の名前を書いた。母は最初、驚いた顔をしたけれど、すぐに優しく微笑んで、「自分で決めたなら、やってみたら」と背中を押してくれた。
久世先生も、こんな言葉をかけてくれた。
「研究者にならなくてもいい。先生にならなくてもいい。好きだったものを、好きだったと残す方法は、いくらでもあるから」
その言葉を胸に、私は自分にできることを、少しずつ見つけようとしていた。
自分に何ができるかは、まだ分からない。
それでも、百年後に誰かが星を必要とするのなら、自分は空を記録し続けようと、心に決めていた。
屋上の手すりにもたれかかりながら、私は空を見上げた。
今夜は、一年前とは違い、雲一つない、澄み渡った夜空が広がっていた。
そして、天気予報の通り。
百年に一度と言われる大流星群が、今夜、この空に現れる予定だった。
誰もいない屋上で、私は鞄から、あの星空図鑑を取り出した。
一年間、大切に持ち続けてきたその図鑑には、私と彗が一緒に書き込んだ、たくさんの星座が記されていた。
夏の大三角。
北斗七星。
カシオペヤ座。
秋の四辺形。
みなみのうお座。
ページをめくるたびに、あの日々が、鮮やかに蘇ってくる。
彗の間違った星の絵。
夏帆と三人で撮った、少しぼやけた写真の思い出。
肉まんを半分に分けた、あの寒い日のこと。
どのページにも、私たちが過ごした、かけがえのない時間が刻まれていた。
図鑑をめくり続け、最後のページにたどり着いた。
そこは、まだ何も書かれていない、白紙のページだった。
あの最後の夜、彗が私に押しつけた、この図鑑。
「これ、返すのは、来年でいいから」
その言葉の意味を、私はこの一年間、何度も考え続けてきた。
結局、彗は帰ってこなかった。この一年、何の便りもなかった。
それでも私は、この約束を、彼女らしい最後の優しい嘘だと、諦めることができなかった。
時計を確認すると、間もなく零時になろうとしていた。
ちょうどその頃、東の空に、一つ、また一つと、光の筋が現れ始めた。
予報通り。
百年に一度の大流星群が、静かに始まっていた。
最初はまばらだった流れ星が、時間が経つにつれて、次第にその数を増やしていく。まるで、夜空全体が、光の粒に包まれていくようだった。
私は、その光景に見とれながら、涙が自然とこぼれるのを感じた。
「彗、見てる?」
誰もいない屋上で、私はそう呟いた。
「彗が見たがってた、本物の大流星群だよ」
流星群の光は、次第に激しさを増していった。一時間に数百個という予報が、決して大げさではないことを、目の前の光景が証明していた。
その光の中、私はふと、手元の図鑑に視線を落とした。
最後の白紙ページ。
流星の光が、そのページを、淡く照らし出していた。
そのとき。
私は、思わず息を呑んだ。
白紙だったはずのページに、これまでなかった文字が浮かび上がっていた。
驚きのあまり、私は図鑑を強く握りしめた。
流星の光に照らされるたびに、その文字は、はっきりとその輪郭を現していく。
見間違えるはずがなかった。
夏の大三角のページに、「ずっと忘れない」と書いた、あの少し丸い字だった。
私は、震える手で、そのページを読み始めた。
『遥へ。
私の世界では、やっぱり、星は見えません。
でも、大丈夫。
私の中には、あなたと見た空があります。
百年前のあなたが残した光は、ちゃんと私まで届きました。
だから今度は、遥が、未来へ届けて。
私の「来年」は、あなたがこれから生きていく時間です』
その言葉を読み終えた瞬間、私は堪えきれずに、大粒の涙をこぼした。
彗は、無事に未来へ帰ることができたのだ。
その確かな証が、今、目の前にあった。
でも、それは同時に、私たちがもう二度と会えないことを、確かに意味していた。
再会できる保証は、どこにもない。
それでも、彗が確かに未来で生きているという、その事実だけで、私の心は、深い安堵に包まれた。
流星群は、なおも空を彩り続けていた。
その中、一筋の光が、ひときわ長く、夜空を横切っていった。
その瞬間、私はふと、あの日、彗が尋ねてきた言葉を思い出した。
「名前のない星を見つけたら、遥はどうする?」
あの時、私はこう答えた。
「名前をつけるよ」
「どんな名前?」
「その時、一番大切な人の名前かな」
私は、涙を拭いながら、その長く尾を引く流星を、じっと見つめ続けた。
もちろん、それはすでに名前のついた、よく知られた流星群の一部に過ぎない。新しく発見された星でも、何でもない。
それでも、私にはその瞬間、その一筋の光が、まるで彗そのものであるかのように感じられた。
彗星のように、一瞬だけ現れて、また遠くへ去っていく光。
私はその流星を見送りながら、小さく、でもはっきりと呟いた。
「……見えてるよ、彗」
その声は、静かな屋上に優しく溶けていった。
百年という時間を隔てても。
同じ空を、同じ瞬間に見ることはできなくても。
私が残した光は、確かに未来の彗のもとへ届いた。
そして今度は、私が、この時間を生きていくことで、いつか彼女への「来年」を、届け続けていくのだ。
私は、白紙だったページに浮かび上がった彗の言葉を、そっと指でなぞった。
その文字は、時間が経つにつれて、少しずつ薄れていった。まるで、役目を終えたかのように。
でも、その言葉が確かにそこにあったという事実は、これから先、決して消えることはない。
流星群は、夜が明ける少し前まで輝き続けていた。
私はその光景を、一つ残らず目に焼き付けようとした。
これから大学で天文学を学び、いつか自分も、誰かにとっての希望になれる記録を、残していけたら。
そんな未来を、私はこの夜空の下で思い描いていた。
流星群が少しずつ収まり始めた頃、東の空が、うっすらと白み始めた。
新しい年の、最初の朝が、もうすぐそこまで来ていた。
私は図鑑を胸に抱きしめながら、思った。
いつか、届かない星に名前をつけるなら。
私はきっと、迷わず、あなたの名前をつける。
その想いを胸に、私は新しい年へと一歩を踏み出した。
もう、彗はここにいない。
でも、彼女と過ごした時間、彼女がくれた言葉、そして彼女への想いは、これから先も、ずっと私の中で輝き続けるだろう。
百年後、もしかしたら彗が今も、あの世界のどこかで、この空を思い出しているかもしれない。
その可能性を信じて、私はこれから、自分の人生を丁寧に、大切に歩んでいこうと決めていた。
いつか、私が積み重ねる記録が、また誰かの希望になる日が来ることを願いながら。
朝日が昇り始めた東の空に向かって、私は最後にもう一度だけ呟いた。
「ありがとう、彗」
その声は、新しい年の澄んだ空気の中に優しく溶けていった。
(了)




