第二十話 聖夜にともる、私たちの小さな星
今日は十二月二十四日、クリスマスイブ。
駅前のロータリーには青と白のLEDが散りばめられ、街中にはどこか浮き足立った空気が流れている。
けれど、そんな世間の喧騒とは裏腹に、天文部室はいつもと変わらず静まり返っていた。
「さむ……」
二学期も終わったその日、久世先生に特別に夜の活動許可を得て、部室のドアを開けた瞬間、口から白い息がこぼれた。
私はマフラーに顔をうずめながら、石油ストーブのスイッチを入れる。カチカチと乾いた音が響いた後、ぼうっと赤い火が灯り、独特の灯油の匂いが部屋に広がり始めた。
冬の夜空は澄んでいる。そのぶん、天体観測の寒さも容赦がない。
「遥、お待たせ!」
勢いよく扉が開くと同時に、冷たい風が室内に流れ込んできた。
駆け込んできた彗は、赤いチェック柄の大きなマフラーに鼻先までうずめ、耳を真っ赤にしていた。その手には、コンビニの小さな袋が握られている。
「彗、寒かったでしょう。ストーブの近くに来て」
「うん、ありがとう。冬の寒さをちょっと甘く見てたかも」
彗はストーブの前にしゃがみ込み、かじかんだ手をかざした。パチパチと暖まる手を嬉しそうに見つめるその横顔は、夏に出会った頃よりもどこか少し、この世界の「当たり前」に馴染んでいるように見えた。
「これ、途中で買ってきたの。イブだからね」
彗が袋から取り出したのは、コンビニの小さなロールケーキだった。上にいちごが一つだけ乗っている、ささやかなものだ。
「二人で分けようと思って」
「ありがとう。じゃあ、お茶を淹れるね」
私たちはストーブを挟んでパイプ椅子を並べ、温かいほうじ茶をすすりながら、小さなケーキを突いた。
「おいしい……」
彗は目を細めて、本当に幸せそうに呟いた。
「彗は、こういうクリスマスって初めて?」
何気なく尋ねると、彗は一瞬、スプーンを動かす手を止めた。それから、少し寂しげに、でも愛おしそうに微笑んだ。
「ううん。映像では何度も見たよ。でも、寒いって言いながらストーブに当たって、誰かとケーキを分けるのは初めて。すごく、あったかいね……ねえ、遥」
彗がほうじ茶の湯気越しに、まっすぐ私を見つめた。
「今年ね、遥に出会えて、私、本当に良かった」
「急にどうしたの?」
「ううん、ちゃんと言っておきたくて。あの夏の日、一人で屋上にいた遥が、私を天文部に誘ってくれたから、私はたくさんの本物を見ることができた。夏の大三角も、天の川も、文化祭で作ったプラネタリウムも。全部、遥が隣にいてくれたから、私のものになったんだよ」
彗の瞳の奥で、ストーブの赤い火が優しく揺れている。
「私こそ、だよ」
私は素直な気持ちを口にした。
「私も。彗が来るまでは、星を見るのに誰かなんていらないと思ってた」
「……うん」
「でも、今は違う。彗と見る星の方が、ずっと好き」
私の言葉を聞くと、彗は泣きそうな顔をして、それから嬉しそうに俯いた。
「……よかった。私のいた足跡が、ちゃんと遥の中に残るなら」
その呟きは小さくて、ストーブの燃える音にかき消されそうだったけれど、私の耳にははっきりと届いた。
「よし! 体も温まったし、そろそろ屋上に行こう」
彗は立ち上がり、マフラーをきゅっと巻き直した。その手には、いつも大切に持ち歩いている、あの革張りの『星空図鑑』が握られていた。
白紙だったそのページは、この数ヶ月で、私たちの筆跡によって少しずつ埋まりつつあった。
屋上への階段を上り、重い鉄の扉を押し開ける。
一歩外に出た瞬間、切り裂くような冷気が全身を包み込んだ。
「寒っ……!」
彗がマフラーに顔を埋めながら、それでもすぐに空を見上げる。
「街の光も綺麗だけど、私はこっちの方が好き」
「星の方?」
「うん。見上げると、夏からのことを思い出せるから」
南の空には、もう見慣れたオリオン座が浮かんでいた。
その周りにはシリウスやプロキオンも輝いている。
「冬の大三角、今日も見えるね」
「はい」
少し前までなら、彗は一つ星を見つけるたびに子どものように歓声を上げていた。
今では、自分から星座を見つけられるようになっている。
「なんか、不思議」
彗がぽつりと言った。
「何がですか?」
「夏は、遥に教えてもらわないと何も見つけられなかったのに。今は、自分でオリオン座も、シリウスも分かる」
そう言って、彗は嬉しそうに笑った。
「遥に教えてもらった空が、ちゃんと私の中にも増えてるんだね」
彗は愛おしそうに図鑑を開いた。懐中電灯の小さな光を頼りに、まだ白紙だった冬のページに、そっと文字を書き込んでいく。
『十二月二十四日。クリスマスイブ。
遥とケーキを半分こした。
星は綺麗だった。』
細い文字でそう書いた後、彗はペンを止め、しばらく夜空を見つめていた。
「ねえ、遥」
「なあに?」
「星の光って、何年も、何十年も、何百年も前の光が、今ここに届いてるんだよね」
「うん。今私たちが見ているのは、ずっと過去の星の姿なんだよ」
彗は自らの胸元に手を当て、小さく息を吐いた。
「過去から届く光……。じゃあ、今、私たちがこうやってここにいて、一緒に星を見上げているこの時間も、いつか誰かに届く光になるのかな」
「え?」
「私たちがここで笑い合って、名前を呼び合って、同じ星を見て感動しているこの瞬間が、何年も先の未来に、誰かの心を温める光になったらいいな、って」
彗の言葉は、まるで祈りのようだった。
彼女の横顔を、シリウスの青白い光が静かに照らしている。その輪郭は、冬の冷たい空気の中で、やはりどこか儚く、今にも夜の中に溶けてしまいそうに見えた。
私は一歩、彗に近づいた。
「届くよ、きっと。今ここで見た星も、今日のことも、私は忘れないと思う」
私は彗の目をまっすぐに見つめて言った。
彗は目を見開いた。彼女の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。それは冬の星の光を反射して、どんなイルミネーションよりも美しくきらめいた。
「……うん」
彗は声にならぬ声で頷き、ポロポロと涙を流しながら笑った。
「ありがとう、遥。私も、ずっと忘れない。この温かい光を、絶対に未来へ持っていくから」
彗は涙を拭い、もう一度図鑑にペンを走らせた。
『十二月二十四日。遥と冬の大三角を見た。寒かった。でも、すごくあたたかかった。』
静かな聖夜の屋上。私たちは寒さを忘れて、いつまでも冬の大三角を見上げ続けた。
冷たい風の中で、お互いの体温だけが確かに温かった。
その夜、図鑑の冬のページに、また一つ、二人だけの記録が増えた。




