第十八話 何でもない日々を、君と
残された日々は、一日ずつ静かに減っていった。その間にも、私たちはこれまでと変わらない日常を繰り返した。
十二月に入ると、季節は本格的な冬を迎えていた。
朝晩の冷え込みが厳しくなり、吐く息が白くなる日も増えてきた。それでも、私たちは変わらず、放課後になると部室や屋上で時間を過ごしていた。
「今日で、残り十七日だね」
カレンダーを見ながら、彗がぽつりと呟いた。
あの日以来、私たちは、残された日数を、あえて数えるようになっていた。それは残酷なようでいて、同時に、一日一日を大切に過ごすための、私たちなりの向き合い方でもあった。
「十七日か……あっという間ですね」
「うん」
彗は少し寂しそうに笑いながら、望遠鏡のレンズを丁寧に拭いていた。
その日から、私たちは特別なことをしようとは考えなかった。
むしろ、これまでと変わらない、何でもない日常を、丁寧に積み重ねていくことを選んだ。
「今日は、部室の整理をしましょうか」
私がそう提案すると、彗は嬉しそうに頷いた。
「うん。長年溜まった資料、整理しようね」
私たちは、段ボール箱に詰め込まれたままだった古い観測ノートを、一冊ずつ丁寧に整理していった。
「これ、去年の先輩たちが書いたノートだ」
「懐かしいですね。私が入部したばかりの頃、この先輩たちに教えてもらったんです」
「遥にも、そんな時期があったんだね」
「そうですよ。最初は、望遠鏡の使い方すら、よく分からなかったんですから」
彗は、そのエピソードを興味深そうに聞いていた。
整理を進める中で、いくつかの古い星図が見つかった。ページの端が黄ばみ、インクも所々かすれている。
「これ、修復できるかな」
彗がその星図を手に取りながら言った。
「破れてるところ、直せそうですね」
私たちは、透明なテープと、慎重な手つきで、その古い星図を修復していった。地味で、時間のかかる作業だったけれど、二人で黙々と手を動かす時間は、不思議と心地よかった。
「昔の人たちも、こうやって、丁寧に記録を残してきたんですね」
「うん。誰かが見てくれるかどうか分からなくても、記録し続けることに、意味があったんだと思う」
彗の言葉に、私はゆっくりと頷いた。
その週末、二人で近所の公園を歩いていると、屋台からいい匂いが漂ってきた。
「肉まん、買おうよ」
彗が嬉しそうに指を差した。
「珍しいですね、彗がそういう提案するの」
「だって、寒いと、あったかいもの食べたくなるでしょ」
私たちは肉まんを一つ買い、ベンチに座って半分に分けた。
「はい、彗の分」
「ありがとう」
彗は、湯気の立つ肉まんを、大切そうに両手で包んだ。
「これ、本当に美味しい」
「そんなに大げさに言わなくても」
「ううん、本当に。寒い日に、あったかいものを、誰かと半分こする。それだけで、こんなに幸せな気持ちになれるんだね」
その言葉に、私は少し胸が痛んだ。
彼女が語る「幸せ」の基準は、いつもこんなにも、ささやかなものだった。それは、彼女が生きてきた未来が、いかに温かさに乏しいものだったかを、静かに物語っているようだった。
「彗」
「うん?」
「未来に帰ったら、この肉まんの味、覚えていられますか」
私の問いに、彗は少し驚いたように私を見た。
「覚えてる。絶対に、忘れない」
「本当ですか」
「うん。遥と食べた、全部のものを、覚えておくつもり」
彗はそう言って、肉まんを一口かじった。
「だから、遥も、覚えててね」
「はい、覚えておきます」
私たちは、寒空の下で、他愛のない会話を続けながら、その肉まんを食べ終えた。
平凡で、何でもないはずのその時間が、なぜか胸に深く刻まれていくのを感じた。
☆
残り十四日となったある夜、私たちは屋上で、冬の星座を探していた。
「オリオン座、見つけた」
彗が指を差した先に、三つ星が並んでいた。
「あ、本当だ」
「あそこの下に、オリオン大星雲があるんだよね。夏に教えてもらった」
「よく覚えてますね」
「遥に教えてもらったことは、全部覚えてる」
彗はそう言いながら、双眼鏡を覗き込んだ。
「冬の大三角も、探してみようよ」
「はい。おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、それにオリオン座のベテルギウス」
私たちは、夜空を見上げながら、その三つの星を探していった。
「あった。こっちの明るい星がシリウス」
「一番明るい恒星ですよね」
「うん」
私たちは、寒さに震えながらも、双眼鏡を交代で覗きながら、冬の星座を確認し続けた。
「彗」
「うん?」
「来年の冬の大三角も、誰かが見てくれるといいですね」
その言葉を口にした瞬間、私は自分でも驚いた。無意識のうちに、彗がいなくなったあとのことを、考えている自分がいた。
「遥が、見てくれるでしょ」
「そう、ですね」
「一人で見るのは、寂しいかもしれないけど」
彗の言葉に、私は少し目を伏せた。
「寂しいです。でも」
「でも?」
「彗と一緒に見た冬の星座を、思い出しながら見ようと思います」
その言葉に、彗は穏やかに微笑んだ。
「うん。そうしてくれたら、嬉しい」
彼女の声には、これまでにない穏やかさがあった。
「そういえば」
彗が、ふと思い出したように言った。
「春になったら、またソーダ味のアイス食べようよ」
「こんなに寒いのに、もうアイスの話ですか」
「春なら寒くないでしょ」
「まあ……そうですけど」
「約束ね」
彗は、いつもの調子で笑った。
「はい。約束です」
☆
その週の別の日、私たちは部室で、いつものように星図を広げていた。
「そういえば、彗」
「うん?」
「この図鑑、まだだいぶ白紙のページが残ってますね」
私は、あの日から少しずつ書き込んできた星空図鑑を、そっと開いた。
「うん。全部埋めるには、まだまだ時間がかかりそう」
「残り十二日で、どこまで埋められるでしょうか」
その問いに、彗は少し寂しそうに笑った。
「全部は、埋まらないかもしれないね」
「そうですね」
「でも」
彗は、図鑑をそっと撫でながら続けた。
「白紙のページが残っても、それでいいと思う」
「どうしてですか」
「未完成なものには、まだ続きがあるってことだから」
その言葉に、私は不思議な安堵を覚えた。
「私がいなくなったあとも、遥は、このページを埋め続けてくれるでしょ」
「はい」
「だから、全部埋まらなくても、大丈夫」
彗はそう言って、優しく微笑んだ。
その日の帰り道、私たちは並んで駅までの道を歩いた。
街灯の光が、二人の影を、長く伸ばしていた。
「彗」
「うん」
「今日も、何でもない一日でしたね」
「うん、何でもない一日だった」
「でも」
私は、彼女の横顔を見つめながら続けた。
「こういう何でもない日々が、一番大切なんだって、最近、よく思います」
彗は、その言葉に頷いた。
「私も、そう思う」
「特別なことをしなくても、彗と一緒にいられる時間そのものが、私にとって、かけがえのないものです」
その告白に、彗は目を潤ませた。
「遥」
「はい」
「ありがとう」
「何がですか」
「そんなふうに、思ってくれて」
彗はそう言って、私の手を、そっと握った。
その温もりを感じながら、私は、残された日々の重さを、改めて噛み締めていた。
部室の整理。冬の星座観測。肉まんを分け合う時間。
どれも、これまでと変わらない、平凡な日常の一部だった。
でも、その一つ一つが、終わりが近づいているという事実によって、これまでにない輝きを帯びていた。
残り十二日。
その数字が、日に日に小さくなっていくことを、私は覚悟を持って、受け止めようとしていた。
彗との時間を、後悔のないように過ごしたい。
その思いだけが、これから訪れる別れの日まで、私を支え続ける、確かな指針になっていた。
冬の澄んだ夜空の下、私たちは、これまでよりも一層、お互いの存在を大切に感じながら、残された日々を歩んでいった。




