第十六話 残された季節
それからの数日間、私は何をしていても彗の言葉ばかり考えていた。
百年後。時間移動。そして、未来に残っている私の観測記録。
どれも現実味がないのに、彗のこれまでの言動を思い返すほど、否定することもできなかった。
翌週の放課後、私と彗は部室で向かい合っていた。
窓の外は、晩秋の澄んだ空気に包まれ、早くも夕暮れが迫っていた。十一月も終わりに近づき、日が落ちるのがどんどん早くなっている。
「彗、この間の続き、聞かせてください」
私は覚悟を決めて、そう切り出した。
彗はゆっくりと頷いた。その表情には、これまでにない緊張の色が浮かんでいた。
「まず、聞いてほしいことがある」
「はい」
「時間移動には、滞在できる期限があるの」
彗は鞄から、未来で渡されたという説明資料を取り出した。
けれど、すぐには続きを口にしなかった。
紙の端を握る指に、少しだけ力がこもる。
「彗?」
呼びかけると、彗は一度だけ目を伏せた。
それから、覚悟を決めるように顔を上げる。
「……十二月三十一日まで」
その日付を聞いた瞬間、私は息が止まりそうになった。
「十二月三十一日……大晦日、ですよね」
「うん」
「それって、あと、一ヶ月ちょっとしか」
「そう」
彗はゆっくりと頷いた。
「年を越したら、私は強制的に、未来へ引き戻されるの」
その言葉が、部室の空気を凍りつかせた。
「引き戻される、って」
「意思とは関係なく、時間移動の力が働いて、私は元の時代に戻る仕組みになってる」
「じゃあ、彗は、必ず未来に帰れるんですね」
私はその言葉に、わずかな希望を見出そうとした。
でも、彗の表情は、その希望を否定するように、暗く沈んでいった。
「それが、そうとも言い切れないの」
「どういう、意味ですか」
「時間移動の技術は、まだ実験段階のものだから」
彗は資料の別の部分を指差した。
「無事に、未来へ帰還できる保証は、実は、ないの」
その言葉に、私は言葉を失った。
「保証が、ない……?」
「うん。最悪の場合」
彗の声が、微かに震えた。
「時間の狭間に、存在そのものが失われる可能性も、ゼロじゃない」
「そんな……」
私は思わず、彼女の手を握った。
「じゃあ、彗は、消えてしまうかもしれないってことですか」
「可能性としては、あるって、聞かされてる」
彗はそう答えながら、私の手をそっと握り返した。
「でも、大丈夫。ちゃんと帰れる可能性の方が、高いって言われてるから」
その慰めは、あまりにも頼りなく聞こえた。
「彗」
「うん」
私の頭の中に、これまで彗が口にしてきた、様々な言葉が蘇ってきた。
「来年も、ここで会おうね」
「来年の冬、二人でここで大流星群を見よう」
「これから遥がどんな人生を歩んでいくか、想像できる」
そのどれもが、まるで確かな未来があるかのような口ぶりだった。
「彗、覚えてますか。文化祭が終わったあと、来年の約束をしましたよね」
「うん、覚えてる」
「あのとき、彗には、来年なんて、なかったんじゃないですか」
その問いに、彗は目を伏せた。
「……そうだね」
「どうして」
私の声が、震え始めた。
「どうして、そんな約束したんですか。最初から、来年なんて、ないって分かってたのに」
涙が、抑えきれずにこぼれ落ちた。
「彗は、ずっと嘘をついてたんですね。来年も一緒に星を見ようって、来年もっと大きな観望会をしようって。全部、実現しないことが分かってたのに」
「遥……」
「なんで、そんな残酷なこと、できたんですか」
私の言葉は、涙で震えながらも、彗を責める強さを帯びていった。
彗はしばらく、何も言わなかった。
やがて、穏やかに、でもはっきりとした声で答えた。
「だって」
「……」
「遥に、今年を、嫌いになってほしくなかったから」
その言葉に、私は思わず動きを止めた。
「今年を、嫌いに?」
「うん」
彗は、涙をこらえるように続けた。
「天文部がなくなる。学校もなくなる。そして、私もいなくなる」
彼女の声は、少しずつ、震えを帯びていった。
「もし、それを全部、最初から知ってしまったら。遥はきっと、この一年を、すごくつらいものとして、覚えてしまうと思ったの」
「彗……」
「星を見ることまで、嫌いになるかもしれない。私と過ごした時間が、悲しい記憶だけになってしまうかもしれない」
彗は、真っ直ぐに私を見つめた。
「だから私、存在しない来年を、約束したの。遥に、今年を、少しでも明るい気持ちで過ごしてほしくて」
その告白に、私は言葉を失った。
彗の「来年」が、優しい嘘だった理由を、私はようやく理解した。
「そんなの……」
私の声は、怒りと悲しみの入り混じった、複雑な響きを帯びていた。
「そんなの、優しさじゃないです。ただの、逃げじゃないですか」
その言葉に、彗は傷ついたような表情を浮かべた。
「彗が、最初からちゃんと話してくれてたら。私、心の準備だって、できたはずです」
「遥」
「なんで、私に選ばせてくれなかったんですか。知った上で、彗と過ごす時間を選ぶかどうか、私が決めることだったはずです」
彗は、私の言葉に目を伏せた。
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃ、ないです」
私は、涙を拭いながら、必死に言葉を絞り出した。
「私は、彗と一緒にいたいだけです。彗がいなくなるなんて、考えたくもないです」
彗の目からも、涙がこぼれ始めた。
「私だって、遥と一緒にいたい」
彼女の声は、これまでにないほど、弱々しく震えていた。
「でも、私には、どうすることもできないの。時間移動の力は、私の意志とは関係なく働くから」
「未来に帰らない方法は、本当に、ないんですか」
私は、藁にもすがる思いで、そう尋ねた。
「探せば、あるかもしれません。何か、方法があるはずです」
「遥」
「私、諦めたくないです」
彗は、私の必死な様子を見て、悲しそうに微笑んだ。
「ありがとう、そう言ってくれて」
「彗」
「でも、簡単には見つからないと思う。未来の科学者たちだって、まだ完全には解明できてない技術だから」
「それでも、探しましょう」
私は強く言った。
「彗がいなくなるなんて、絶対に嫌です」
彗は、私の言葉に、しばらく黙って涙を流し続けた。
やがて、彼女はそっと私の手を握り返した。
「うん。一緒に、方法を探そう」
その言葉には、これまでの彼女とは違う、微かな希望の色が滲んでいるように感じられた。
でも同時に、私はどこかで気づいていた。
彼女がこの言葉を口にするとき、本当は、その可能性がほとんどないことを、既に理解しているのではないかということに。
部室の窓の外には、すっかり夜の闇が広がっていた。
残された時間は、あと一ヶ月あまり。
その事実の重さを噛み締めながら、私たちは、これまでのように、言葉を交わし続けた。
でも、その会話の一つ一つに、これまでとは違う、切実な意味が宿り始めていることを、私は痛いほど感じていた。
彗との時間が、確かに終わりに近づいている。
その現実を、私はようやく、受け止めなければならなくなっていた。
その夜、私たちは時間移動について調べられる範囲で調べた。けれど、百年後の実験技術について、今の時代に答えがあるはずもなかった。検索しても出てくるのは空想科学やSFの話ばかりだった。




