第十五話 私を知っていた君
夜の部室に、重い沈黙が流れていた。
「彗」
私はもう一度、震える声で名前を呼んだ。
「他に、まだ隠してることがあるんですよね」
彗はしばらく俯いたまま、何も答えなかった。
やがて、意を決したように顔を上げると、鞄の中から、あの見慣れた革張りの図鑑を取り出した。
「これ、覚えてる?」
「はい。彗の、星空図鑑」
「これね、実は」
彗はその表紙を、そっと撫でた。
「未来にある、本物の観測記録と、同じものなの」
「同じもの?」
「正確に言うと……これは、これから遥が書いていく記録が、いつか未来で本になったもの。その未完成の状態」
「だから、白紙だったんですね」
「うん。まだ書かれていない、未来の遥の記録だから」
彗はそう言いながら、白紙のページをそっとめくった。
「でも、私と一緒に、少しずつ書き込んでいったじゃないですか。夏の大三角とか、北斗七星とか」
「うん。あれは、遥と私だけの記録。本物の未来の観測記録とは、また別のもの」
彗は少し複雑な表情を浮かべた。
「私は、本当は、この図鑑を埋めるためにここに来たんじゃない。ただ、遥に会いたくて、ここに来た」
「でも、埋めたいって、言ってましたよね」
「うん。それは、本心だった。この時間が、いつか本当に消えてしまうとしても、この図鑑の中にだけは、私たちが過ごした証を残しておきたかったから。お母さんが、幼い私に、この観測記録を見せてくれたの」
彗の目に、懐かしそうな光が浮かんだ。
「お母さんは言ってた。『昔、この記録を書いた女の子がいたんだよ』って」
「私の、記録を?」
「小さい頃、眠れない夜になると、同じページを読んでもらった。夏の大三角のページ。私は星を見たこともないのに、三つの星の位置だけは暗唱できた」
「……だから、初めて本物を見たとき、泣いたんですか」
「うん。遥の文章の中にしかなかった空が、本当にあったから。天の川も、冬のオリオン座も。遥の言葉を読んでいると、見たこともないのに、その空の下にいるような気がした」
彗は、机の上に置かれた図鑑の白紙ページを、そっと指でなぞった。
「本当は、この記録には、遥の名前だけじゃなくて、遥の人生についても少しだけ残っていたの」
「私の人生?」
「うん。でも、それは今は話さない」
「どうして?」
「未来を知りすぎると、遥は、これから自分の意思で歩んでいく道を、迷ってしまうかもしれないから。それに、私が知ってるのは、記録の中の断片だけ。それがどこまで正確なのかも、本当のところは分からない」
「そうなんですか」
「うん。だから、遥には自分で未来を選んでほしい」
「彗」
「うん?」
「でも、私がそんなに特別な人間だとは、今でも思えません」
「それでいいんだよ」
彗は優しく微笑んだ。
「特別だから、記録が残るわけじゃない。ただ、毎日ちゃんと星を見続けて、それを丁寧に記録し続けたこと。その積み重ねが、百年後の誰かにとって、かけがえのない宝物になったの」
「積み重ね……」
「うん。派手なことをする必要なんて、なかったの。ただ、遥が遥らしく、星を好きでい続けたこと。それだけで、じゅうぶんだった」
その言葉に、私は少しずつ、自分の中の何かが解けていくのを感じた。
特別な才能ではなく、私が続けてきた平凡な日々そのものに、意味があったのかもしれない。
「彗」
「うん」
「彗のお母さんは、なんで時間移動に反対してたんですか?」
その問いに、彗の表情が、また少し曇った。
「時間移動は、まだ実験段階の技術だから。何が起きるか、完全には分かってない」
「危険な技術、なんですか」
「うん。それに」
彗は少しの間、言葉を選んだ。
「お母さんは、私が過去に来たら、今よりもっと、星が欲しくなってしまうって、心配してた」
「星が、欲しくなる?」
「本物の星空を見て、遥みたいな人に出会って。それを知ってしまったら、未来に戻ったとき、余計につらくなるんじゃないかって」
その言葉には、母親としての深い愛情が滲んでいた。
「実際、その通りになってると思う」
彗は寂しそうに笑った。
「私、今、すごく幸せなの。遥と一緒に星を見て、遥のお母さんの料理を食べて、コンビニでアイスを買って。こんな日常が、こんなにも愛おしいものだって、未来に帰ったら、きっと今よりずっとつらく感じると思う」
その告白に、私は胸が締め付けられた。
「彗」
「うん」
「未来に、帰らなきゃいけないんですよね」
その問いに、彗は一瞬、視線を逸らした。
「……うん」
「いつ、帰るんですか」
彗はしばらく黙っていた。
「来週中には、ちゃんと全部話すから」
「約束ですよ」
「うん。約束」
彗はそう言って、穏やかに微笑んだ。




