第十四話 遠すぎる約束
十一月半ば。
あの夜以来、私は彗の様子を注意深く観察するようになっていた。手を握ったときに感じた違和感。身体が透けて見えた瞬間。それらは一度きりのことではなく、その後も度々、似たような現象が起きていることに気づいていた。
写真を撮ると、時々彗の輪郭だけがぼやける。
夕暮れ時、逆光の中で見ると、彼女の身体が一瞬だけ薄く透けることがある。
そして何より、彼女は日に日に、どこか儚げな表情を見せるようになっていた。
その日、放課後の部室で、私はとうとう決意した。
「彗」
望遠鏡の手入れをしていた彗が、顔を上げた。
「はい、遥。何?」
「もう、待てません」
私はまっすぐに彼女を見つめた。
「今、話してください。彗に何が起きてるのか」
彗の手が、望遠鏡のレンズの上で止まった。
「……遥」
「何度も、待ってって言われました。でも、彗の様子は、日に日におかしくなってる気がします。手が消えたり、身体が透けたり」
私は震える声を、必死に抑えながら続けた。
「私、もう、怖いんです。彗が、このままいなくなっちゃうんじゃないかって」
その言葉を口にした瞬間、私の目から涙がこぼれた。
彗は望遠鏡から手を離し、しばらく黙って私を見つめていた。
やがて、彼女はそっと息を吐いた。
「……分かった」
その声には、これまでの躊躇を振り切ったような、確かな覚悟があった。
「今から話すこと、信じられないかもしれないけど、全部本当のことだから」
彗は部室の窓を閉め、椅子を引いて私の正面に座り直した。その表情は、これまで見たことのないほど真剣だった。
「遥」
「はい」
「私、この時代の人間じゃないの」
その一言に、私は息を呑んだ。
「どういう、意味ですか」
「私は、今から百年後の未来から来たの」
彗の言葉は穏やかだった。けれど、はっきりと部室の空気を震わせた。
「百年後……」
私はその言葉を、うまく飲み込むことができなかった。
「信じられないよね。でも、本当のことなの」
彗は続けた。
「未来の地球では、大気の状態が大きく変わってしまって。地上から、肉眼で星を見ることが、ほとんどできなくなってるの」
「星が、見えない?」
「うん。大気汚染とか、気候変動とか、色んな要因が重なって。空はいつも、白っぽく霞んでる。夜になっても、星なんて、ほとんど見えない」
その説明を聞きながら、私はこれまでの彗の言動を、一つ一つ思い出していた。
星の知識には詳しいのに、実際に見た経験がまるでなかったこと。
「本当に、こんなにあるんだ」と、涙を流したあの初めての夜。
「写真より、ずっと淡いんだ」と、天の川を見て驚いたこと。
すべてが、この一言で、一本の線につながった。
「私が生まれ育った時代では、星座なんて、教科書の中でしか知らないものになってる。実際に満天の星空を見たことがある人なんて、もう、ほとんどいないの」
彗の声には、深い悲しみが滲んでいた。
「私は、小さい頃から、星に憧れてた。教科書に載っている星座の写真や、大昔の観測記録を、何度も読み返して育ったの」
「観測記録?」
「うん。百年前の……ちょうど今のこの時代の、天体観測記録」
彗はそこで一度言葉を止めて、私の目をまっすぐに見つめた。
「実験段階の時間移動技術があって。人生に一度だけ、過去への旅を許可される制度があるの。私は、それを使った」
「時間移動……」
「行き先に選んだのが、遥が生きている、この時代だった」
その言葉に、私は言いようのない衝撃を受けた。
「でも、彗」
「うん」
「なんで、この時代を選んだんですか。時間移動なんて、そんな貴重な機会があるなら、もっと別の目的があってもいいはずです」
彗は少しの間、俯いた。
やがて、意を決したように顔を上げた。
「それだけじゃないの」
「え?」
「本当の理由が、もう一つある」
彗の目には、これまでにない、深い覚悟の色が浮かんでいた。
「未来に残された、古い天文資料の中に、一冊の観測記録が保存されてるの」
「観測記録?」
「百年前……つまり、今この時代に生きている、一人の高校生が記録した、星空の観測ノート」
私は嫌な予感に、心臓が高鳴るのを感じた。
「そこに書かれていた名前が」
彗の声が、微かに震えた。
「星住遥、だった」
その瞬間、私は言葉を失った。
「え……」
「未来の私は、幼い頃から、その観測記録を何度も何度も読んで育ったの。丁寧に記録された、毎日の天候。星の位置。観測時の感想。その一つ一つが、私にとって、星への憧れの原点だった」
彗の目から、涙がこぼれ始めた。
「遥が描いた星図。遥が撮った夜空の写真。そして――」
彼女は、震える声で続けた。
「遥が書いた、『星は見えなくなっても、見上げた人の記憶までは消えない』っていう言葉」
その言葉に、私は強く胸を打たれた。それは、確かに私が書きそうな言葉だった。星が見えない曇りの日に、自分を励ますように、いつかノートに書き記した言葉だったのかもしれない。
「私は、その百年前の少女に、ずっと憧れてた」
彗の涙は、止まらなかった。
「本物の星空を見るため。そして――自分に星を教えてくれた、遥に、一度だけ会うため」
「それが、彗がこの時代に来た、本当の理由だったんですね」
私はようやく、震える声でそう口にした。
彗はゆっくりと頷いた。
「初めて会った日、屋上で泣いたのは、生まれて初めて本物の星空を見たからだけじゃなかった」
「じゃあ、何で」
「憧れていた人に、本当に会えたことが、信じられなかったから」
その言葉に、私は言葉を失った。
あの日、初めて出会ったとき、彗はうっかり「遥――」と、まるでずっと前から知っていたかのように、私の名前を呼びかけた。
あの瞬間から、彼女は最初から、私のことを知っていたのだ。
「私は……そんな、立派な人間じゃないです」
私は動揺しながら、必死に言葉を絞り出した。
「星が好きなだけの、何も特別なところのない、ただの高校生です」
「そんなことない」
彗は強く否定した。
「遥が残した記録は、未来で星を見ることのできない私にとって、大切な希望だった。遥が見てきた星空の記憶が、百年後の私まで、確かに届いてたの」
「信じられません……」
「信じてほしい」
彗は私の手を、そっと握った。今度は、消えることのない、確かな温もりだった。
「遥は、自分が思っている以上に、大切な人なんだよ」
その言葉に、私は嗚咽をこらえきれなくなった。
自分は何者でもないと思っていた私が、百年後の誰かにとって、これほど大きな意味を持つ存在だったなんて。
すぐには、受け止めきれなかった。
「彗」
「うん」
「未来では、彗のこと、心配してる人が、いるんですよね」
その問いに、彗の表情が、ふと曇った。
「お母さん、いるって言ってましたよね」
「うん」
「彗が、こっちに来てること、知ってるんですか」
「知ってる。反対、されたけど」
「危ないから、って言ってましたよね」
彗はゆっくりと頷いた。
その表情には、これまで見せたことのない、深い不安の色が浮かんでいた。
「彗」
「うん?」
「危ないって、どういうことですか。時間移動って、そんなに、危険なものなんですか」
私の問いに、彗は一瞬、目を逸らした。
その反応に、私は新たな不安を感じずにはいられなかった。
「彗、他にも、何か隠してることがあるんですか」
彗はしばらく黙り込んだあと、目を伏せた。
「……うん」




