第十三話 触れた手が、消えた
十一月に入ると、夜はめっきり冷え込むようになった。
天文部としての活動は表向きこの一年で終わることが決まっていたけれど、私と彗は変わらず、放課後になると屋上へ足を運んでいた。今はもう、部活動というより、私たち二人だけの習慣になっていた。
「今日は、冬の星座、見えるかな」
彗は防寒具を着込みながら、期待に満ちた表情で空を見上げた。
「オリオン座なら、もう見え始めてる時期です」
「楽しみ」
私たちは望遠鏡を屋上に運び、東の空を確認した。
まだ完全な冬の星座ではないけれど、季節の変わり目特有の、澄んだ空気の中に、少しずつ冬の星々が顔を出し始めていた。
「あそこ、オリオン座の三つ星」
私が指差すと、彗はその方向へ目を凝らした。
「本当だ。三つ並んでる」
「そのすぐ下に、オリオン大星雲があるんですけど、肉眼だとちょっと分かりにくいですね」
「望遠鏡で見せて」
私は望遠鏡の向きを調整して、彗にレンズを覗かせた。
「わあ……もやもやしてる」
「ガスと塵の集まりです。星が生まれる場所なんですよ」
「星が、生まれる場所」
彗はその言葉を、ゆっくりと繰り返した。
「不思議だね。星にも、生まれる場所があるんだ」
「星にも、寿命がありますからね。生まれて、燃えて、いつか消える」
「消える、か」
その言葉に、彗の表情が少しだけ曇った。
私はその変化に気づいたものの、深くは追及しなかった。ここ最近、彗はふとした瞬間に、こういう影のある表情を見せることが増えていた。
冷たい夜風が吹き抜ける中、私たちは望遠鏡の向きを変えながら、いくつかの冬の星座を確認していった。おうし座、ふたご座、こいぬ座。それぞれの星座にまつわる神話を、私は彗に語って聞かせた。
「オリオンって、狩人だったんですよね」
「うん。すごく強い狩人で、自分の力を誇っていたら、女神の怒りを買って、サソリに刺されて死んじゃうっていう話」
「それで、オリオン座とさそり座は、同時に見えないようになってるって聞いたことある」
「詳しいですね」
「知識だけは、あるから」
彗はそう言って、少し寂しそうに笑った。
その笑顔を見て、私はふと、彼女の手を握りたいという衝動に駆られた。
この数ヶ月で、少しずつ縮まってきた距離。名前を呼び合うようになり、二人だけの秘密の場所も増えた。それでも、まだ手を繋いだことは一度もなかった。
「彗」
「うん?」
「手、冷たくないですか」
私は少し勇気を出して、そう尋ねた。
「うん、ちょっと冷たいかも」
「じゃあ……」
私はゆっくりと、彼女の手に向かって、自分の手を伸ばした。
いつもより心臓が早鐘を打つのを感じながら、私は彼女の手を握ろうとした。
そのとき――。
私の手のひらに触れたのは、確かに彼女の手の感触だった。柔らかくて、冷たくて、少しだけ震えている。
でも、次の瞬間。
その感触が、一瞬だけ、ふっと消えた。
まるで、何もない空間を握ったような。
「え……」
私は驚いて、自分の手のひらを見つめた。彗の手は、確かにそこにあった。今も、私の手の中にしっかりと収まっている。
でも、さっきの一瞬だけ、確かに何もない感触があった。まるで、彼女の手が一瞬だけ、この場所から消えてしまったかのような。
「どうしたの?」
彗が不思議そうに私を見つめた。
「今、一瞬……何もない感じが、しました」
「何もない?」
「彗の手を握ったはずなのに、一瞬だけ、空を掴んだみたいな」
彗の表情が、明らかに強張った。
「気のせいじゃない? 寒くて、手の感覚がおかしくなったのかも」
「そう、でしょうか」
私は自分の感覚を疑おうとした。確かに、寒さで手がかじかんでいたのは事実だ。錯覚だと言われれば、そうかもしれないと思えなくもなかった。
でも、その違和感は、あまりにもはっきりしていた。
望遠鏡の観測を再開してしばらく経った頃、私はもう一度、彗の様子に異変を感じた。
彼女が接眼レンズを覗き込んでいるとき、街灯の光が、彼女の身体を斜めから照らしていた。
その瞬間――彗の輪郭が、一瞬だけ、薄く透けて見えた。
まるで、陽炎越しに見ているような、そんな不確かな輪郭。
「彗!」
私は思わず声を上げた。
「え、何?」
彗が振り返る。その姿は、いつも通り、しっかりとそこにあった。
「今、身体が……透けて見えました」
「そんなはずないよ」
彗はそう言って笑おうとしたけれど、その笑顔は、明らかにぎこちなかった。
「私、はっきり見ました。彗の身体越しに、後ろの給水塔が見えたんです」
「気のせいだよ、きっと」
彗はそう言いながら、私から視線を逸らした。
「もう夜も遅いし、街灯の光の加減で、そう見えただけだと思う」
その説明には、あまりにも無理があった。
でも、彗がこれほどまでに動揺している姿を見て、私はそれ以上、強く問い詰めることができなかった。
「彗」
「うん」
「本当に、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ」
彗はそう答えたけれど、その声には、これまでにない弱さが滲んでいた。
「もし、何か問題を抱えてるなら、話してほしいです」
「……」
「私たち、もう数ヶ月、一緒に星を見てきたじゃないですか。それなのに、まだこんなに、秘密にされてることがある」
私の言葉に、彗はゆっくりと目を伏せた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は小さな声で言った。
「もう少しだけ、待ってほしい」
「いつも、そう言いますね」
「ごめん」
彗の声には、心からの謝罪の響きがあった。
「でも、本当に、もう少しだけなの。もう少ししたら、必ず、全部話すから」
「もう少し、って、いつですか」
「……冬になったら」
その答えに、私は少し驚いた。
「冬って、もう十一月ですよ。今も、冬に近いじゃないですか」
「本格的な冬になったら」
彗はそう繰り返して、それ以上は何も言わなかった。
その日の帰り道、私たちは無言のまま歩いた。
いつもなら他愛のない話で盛り上がる時間が、その日はただ、重たい沈黙に包まれていた。
駅で別れる直前、彗がふいに口を開いた。
「遥」
「はい」
「さっきのこと、忘れないでいてくれる?」
「さっきのことって」
「手が、一瞬消えたみたいだったこと。身体が、透けて見えたこと」
その言葉に、私は驚いて彗を見た。
「忘れないでって、どういうことですか」
「うまく、言えないんだけど」
彗は少し困ったように笑った。
「もし、これから何か、驚くようなことが起きても、あれは、私の嘘じゃなかったんだって、覚えていてほしいの」
その言葉の重みに、私は言いようのない不安を覚えた。
「彗、何か、良くないことが起きようとしてるんじゃないですか」
「……」
「教えてください。私、ちゃんと、受け止めますから」
彗は少しの間、私を見つめた。その目には、深い葛藤の色が浮かんでいた。
「本当に、もう少しだけ、待ってて」
彼女はそう言って、無理に笑顔を作った。
「約束は、ちゃんと守るから」
その「約束」という言葉が、これまでのどの瞬間よりも、重く、そして切なく響いた。
電車が到着し、彗はホームへと歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は先ほど感じた、あの奇妙な感触を何度も思い返していた。
握ったはずの手が、一瞬だけ消えた感触。
街灯の光越しに、透けて見えた彼女の輪郭。
それらはもう、単なる錯覚や思い違いとして片付けられるものではないように思えた。
彗の身に、何か普通ではないことが起きている。
その予感は、確信へと変わりつつあった。
家に帰り、ベッドに横になっても、私はなかなか眠りにつくことができなかった。
彗が抱えている秘密。
冬になったら話すという、あの言葉。
そして、あの不安げな瞳の色。
すべてが、これから訪れる大きな何かの前触れのように感じられて、私は暗闇の中で、じっと天井を見つめ続けた。
窓の外の空には、いつもと変わらない星々が瞬いていた。
でもその夜、私にはその光が、なぜかいつもより、頼りなく揺らめいて見えた。




