第十二話 彗の知らない“普通”
十月最初の日曜日、私は彗を家に招待することにした。
部室にある古い星図だけでは資料が足りず、以前、父が買ってくれた天体図鑑を借りようと思ったのがきっかけだった。それに、これまで彗の家に行ったことも、家族について詳しく聞いたこともないことに、ふと気づいたからでもあった。
「本当に、お邪魔していいの?」
最寄り駅で待ち合わせたとき、彗は少し緊張した面持ちで尋ねてきた。
「はい。母も、会いたがってたので」
「お母さんに、私のこと話してたの?」
「まあ、天文部に新しい部員が入ったって、それくらいですけど」
彗は少し照れたように笑って、私の後をついてきた。
☆
家に着くと、玄関先で母が出迎えてくれた。
「あら、あなたが相沢さん? いらっしゃい」
「お邪魔します。相沢彗です」
彗は丁寧に頭を下げた。その仕草は、どこか妙にかしこまっていて、まるで初めて誰かの家に招かれたことに慣れていないような、そんなぎこちなさがあった。
「遥がいつも、あなたのこと話してるのよ。天文部が二人になって嬉しいって」
「そんな、恥ずかしいこと言ったんですか」
私は思わず母を睨んだ。母は悪びれもせず、笑いながらリビングへ案内してくれた。
「ちょうど今、お昼の準備してたところなの。一緒に食べていく?」
「あ、そんな、悪いです」
「遠慮しないで。ちょうど多めに作ってたから」
彗は少し戸惑った様子で、リビングのソファに腰を下ろした。
テーブルには、家族三人分より少し多めの唐揚げや味噌汁が並んでいる。ごく普通の、我が家の日曜日の昼食だった。
「いただきます」
私たちは手を合わせて、食事を始めた。
彗は箸を手に取り、唐揚げを一口食べると、驚いたように目を見開いた。
「美味しい……!」
「そんなに大げさに言わなくても」
私は少し照れながら言った。
「ううん、本当に美味しい。家庭料理って、こんな感じなんだ」
「相沢さんの家では、唐揚げ、食べないんですか」
母が何気なく尋ねると、彗は一瞬、答えに詰まった。
「あ……その、うちは、あんまり、みんなで食卓を囲むことがなくて」
「あら、そうなの」
「はい……なので、こうやって、家族みんなでご飯を食べる、っていうのが、ちょっと新鮮で」
彗はそう言いながら、味噌汁をひとくち飲んだ。その瞬間、彼女の表情がふっと緩んで、まるで何かに感動しているような顔をした。
「これも、初めて?」
私が小声で尋ねると、彗は少し照れたように頷いた。
「味噌汁自体は知ってるけど……こうやって、誰かが作ってくれたのを、みんなで囲んで飲むのは」
その答え方は、私にとってますます不思議に聞こえた。彼女の家にも、当然家族はいるはずだ。それなのに、食卓を囲む経験がほとんどないというのは、いったいどういうことなのだろう。
食事が終わり、母がテレビをつけると、ちょうど夕方の情報番組が流れ始めた。
「あ、これ、知ってる」
彗が画面を指差した。
「有名な番組ですか」
私は尋ねた。
「ううん……なんていうか、映像で見たことがある、っていう感じ」
「見たことある、ってどういうことですか。今放送中の番組ですよ」
「あ、そう、だよね」
彗はまた慌てたように誤魔化した。
その様子を見て、母が興味深そうに彗を見た。
「相沢さんって、面白いこと言うのね」
「あ、すみません、変なこと言って」
「ううん、悪気はないんだと思うけど」
母は少し不思議そうに首をかしげながら、それ以上は追及しなかった。
食後、私たちは私の部屋に移動して、天体図鑑を探すことにした。
本棚の奥から古い図鑑を取り出しながら、彗は部屋の中をぐるりと見渡していた。
「遥の部屋、すごく落ち着く」
「普通の部屋ですよ」
「ううん、なんだか、時間がゆっくり流れてる感じがする」
図鑑を探し終えたあと、私たちはベッドに並んで座り、しばらく雑談を続けた。
「彗の家って、どんなところなんですか」
私は思い切って、その質問を口にした。
これまで何度か聞こうとして、その度にはぐらかされてきた話題だった。でも、今日のように彗が「普通」に驚く姿を何度も見てしまうと、その理由をどうしても知りたくなってしまう。
彗の表情が、一瞬曇った。
「……それ、まだ、答えられない」
「どうして、そんなに秘密にするんですか」
「話したら、遥が困ると思うから」
「困る、って」
私は少し苛立ちを覚えた。
「毎回、そうやって誤魔化されると、私、余計に不安になります」
彗は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
「彗のご両親は、どんな人なんですか。仕事は? きょうだいはいるんですか」
質問を重ねるうちに、彗の表情がさらに硬くなっていった。
「……お母さんは、いる」
ようやく、彼女はぽつりとそう答えた。
「お母さんは、私が今、ここにいることを、あんまり良く思ってない」
「どうしてですか」
「危ないから、って」
「危ない?」
「うん」
彗はそれ以上、詳しく話そうとしなかった。
その代わりに、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべて、続けた。
「でも、お母さんは、私のことを大切に思ってくれてる。それだけは、確かなの」
「お父さんは?」
「お父さんのことは、あんまり、覚えてない」
彗はそう言って、視線を窓の外に向けた。
「それ以上は、本当に、まだ話せない」
その声には、これ以上追及しないでほしいという、切実な願いが込められていた。
「ごめんなさい。無理に聞いて」
「ううん、遥が気になるのは、当然だと思う。私が、変なことばっかり言うから」
彗は自嘲気味に笑った。
「いつか、必ず話すから。今は、もう少しだけ、待っててほしい」
私はその言葉を、また信じるしかなかった。
「分かりました」
私たちはそれから、天体図鑑を開いて、次の観測計画について話し合った。話題を変えたことで、彗の表情も、少しずつ元の明るさを取り戻していった。
夕方、彗が帰る時間になり、私は駅まで見送った。
「今日は、ありがとう。楽しかった」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「お母さんも、優しい人だね」
「そうですか?」
「うん。あんな風に、普通に、心配してくれたり、料理を作ってくれたりする人がいるって、なんだか、いいなって思った」
その言い方には、羨望のようなものが滲んでいた。
「彗の家では、そういうことは、あんまりないんですか」
「……あんまり、ないかな」
彗は寂しそうに笑った。
「うちは、色々あって。ゆっくり食卓を囲むような、余裕がなくて」
「大変な家庭環境、なんですね」
「大変っていうか……」
彗は言葉を選ぶように、少し考え込んだ。
「うまく言えないけど、私が育った場所は、遥のところとは、色々違うんだと思う」
その答えは、これまでで一番、真実に近い言葉のように感じられた。
でも、それが具体的にどういう意味を持つのか、私にはまだ想像もつかなかった。
電車が到着するアナウンスが流れ、彗はホームへと向かって歩き出した。
「じゃあ、また明日」
「はい、また明日」
彗は電車に乗り込む前に、もう一度振り返って言った。
「今日、遥の家族に会えて、良かった」
「そんなに、たいしたことじゃないですよ」
「ううん、たいしたことだよ」
彗はそう言って、優しく微笑んだ。
「普通の家族の温かさって、すごく貴重なものだから」
その言葉を最後に、電車のドアが閉まった。
窓越しに小さく手を振る彗を見送りながら、私はその言葉の重みを、改めて感じていた。
彼女にとって「普通」であることが、これほどまでに特別で、貴重なものだとしたら。
彼女がこれまで過ごしてきた日々は、いったいどんなものだったのだろう。
☆
家に帰ると、母が夕食の片付けをしながら、私に言った。
「相沢さんって、なんだか、不思議な子ね」
「うん、私もそう思う」
「でも、悪い子じゃないみたい。遥のことを、本当に大切に思ってるのが、伝わってきたわ」
その言葉に、私は少し嬉しくなった。
「あの子、何か抱えてるんじゃないの? さっきの、家族の話をするときの表情、なんだか切なそうだったから」
母の観察眼の鋭さに、私は少し驚いた。
「うん……たぶん、何か、大きな秘密があると思う」
「無理に聞き出そうとしなくていいと思うわよ。話す気になったときに、ちゃんと話してくれるはずだから」
その言葉に、私はゆっくりと頷いた。
自分の部屋に戻り、借りてきた図鑑を机に置きながら、私は窓の外の空を見上げた。
雲一つない、澄んだ夜空だった。
彗が今頃、どんな家に帰っているのだろうと、私はぼんやりと想像しようとした。
でも、彼女の生活の輪郭は、あまりにも曖昧で、うまく思い描くことができなかった。
ただ確かなのは、彼女がこれまで、私が当たり前だと思ってきた日常の温かさを、ほとんど知らずに育ってきたらしいということだけだった。
その事実が、なぜか胸の奥に小さな痛みとなって残った。




