翠月
「……春蘭様……春蘭様……」
控え目に寝室の扉を叩く若い侍女が、上品かつ柔らかな口調で主に問いかけている。
「……春蘭様、お目覚めでいらっしゃいますか? 春蘭様……?」
夢の中で天宮に着き、少女の姿のまま玻璃の階段を駆け上がっていた春蘭が、その声に気付いてふと足を止めた。
「……春蘭様、起きて下さいませ。白夜が鳳翔殿下の御使者から親書を賜ったと報告しております」
(これは……花梨の声……? それに……鳳翔殿下ですって……?!)
侍女の言葉でたちまち現実に引き戻された春蘭が、やおら薄目を開くと、龍家の極上の寝台で体を起こした。
見回せばここは、玻璃の宮殿でも朽ちかけた芳家の屋敷でもない。
夢の中で彼女が着ていた色褪せた桃色の袍は、いつのまにか色鮮やかな刺繍を施された真紅の絹の夜着に変わっていた。
そうだ。夢の世界があまりに鮮明なので忘れていたが、彼女はこの百華国で十華に名を連ねる龍家の実質上の主で、鳳翔殿下に仕える双子の官吏の母でもある龍春蘭なのだ。
微かに残る『芳春蘭』の意識を振り切ると、彼女が即座に扉の向こうで待機している侍女に声をかける。
「花梨、白夜は今どこにいるの?」
白夜とは春蘭の護衛を兼ねた側近の名だ。
「春蘭様の執務室にお通ししてあります」
「わかったわ。すぐに行くからそこで待つように伝えてちょうだい」
「かしこまりました」
「それから、執務室に二人分の菊茶を運んでくれる?」
「はい。他に何かお手伝い出来ることはございますか?」
「身支度なら一人で出来るから大丈夫よ。ありがとう」
花梨にそう返しながらも、彼女は既に夜着を脱ぎ捨てて、執務にふさわしい紫紺の袍にてきぱきと着がえていた。
地味な紫紺の袍は、豪華な銀糸の刺繍が施されており威厳があるものの、着る者をはっきりと選ぶ。
だが、春蘭はまるで華麗な大輪の蘭の花だ。薔薇でさえも霞む華やかさを纏う彼女にとって、地味な色合いの袍は彼女の品格を上げこそすれ、損なうことなどありはしない。
長い黒絹の髪を素早く結い上げて纏めると、春蘭は家人達から『執務室』と呼ばれている彼女専用の書庫へと歩を急ぐ。
「白夜、入るわよ」
声をかけながら重厚な褐色の扉を開くと、どっしりした文机の横に立つ長身の男が、拱手して春蘭に挨拶した。
短く整えられた黒髪に、仕立ての良い黒い袍。男盛りに見えるが年齢も出自も不詳の彼は、結婚前から春蘭に仕えていた忠臣だ。普段は穏やかな口調と物腰でありながら、武においては百華国左羽林軍の李猛亮将軍並みと囁かれるほどの腕前で、まるで別人のような精悍さも持ち合わせている不思議な男である。
「お早うございます、春蘭様」
「お早う、白夜。休日の朝からご苦労様」
白夜に来客用の長椅子を勧め、自分もさっそく彼の正面に腰を下したところで、花梨がやってきた。
可憐で優しげな面の侍女が、螺鈿細工が施された黒い漆塗りの卓に菊の花茶をそっと置く。
花梨が部屋を去ると、すぐさま春蘭が件の親書を読み始めた。
ややあって、彼女が小さな溜息をもらすと、白夜が静かに尋ねる。
「史明様と麗宝様の行方は、お分かりになりましたか?」
「残念ながら、まだどっちの消息もつかめていないっていう、単なる中間報告だったわ。鳳翔殿下も結構まめよね……ところで、白夜に頼んであった捜索の方はどうなっているの?」
「春蘭様のご指示通りに、百華商連(百華国商人連合組合)の協力を仰いで進めておりますが、南陽以降のお二人の足取りはまだ掴めていないようです」
「そう……」
再び溜息をついた春蘭が、菊の花が浮かんだ茶を少し飲んでから独り言のように呟く。
「しーちゃんはともかく、麗ちゃんの方は、無事ならすぐに連絡しようとするはずだわ。二日経っても音沙汰がないということは、運良く無事だったとしても、どこかに監禁されているか、連絡が取れないところにいる可能性が高いわね。国外の、それこそ凱帝国の領内だとか……」
気丈な彼女の面に、微かな陰りが浮かぶ。
「……白夜、凱帝国内に忍ばせている間諜からの連絡はまだ?」
「残念ながら、ありません」
「そう……」
昨日の朝、鳳翔が遣わせた早馬がやってきて、麗宝と史明が行方不明になったという報せを受けてから、春蘭はありとあらゆる手段を駆使して、二人の居所を探して来た。
見た目によらず図太く賢い二人のことだ。大抵のことなら切り抜けられるはずだが、今回の件に関しては、凱帝国と御龍神教の龍が絡んでいるという情報が方々から入って来ており、春蘭の不安を掻き立てていた。
しかも、頼りの黒鳳凰は傷を負わされていて、召喚にすら応じないという状態だという噂まで流布している。
双子の無事を祈る春蘭に、白夜が告げる。
「お二人の……ことに麗宝様の行方に関しては、伯家の方でも可能な限りの手を尽くして探しておられるとのことです。それに麗宝様でしたら、万が一誘拐されていたとしても、よほどの愚か者でもない限りは、手をかけることはないはずですが……」
彼はさらに何かを言いかけたが、そこで口をつぐんだ。
確かに、仮にも麗宝は百華国の状元様だ。その彼女を誘拐したならば、まずは当然、その上司である皇太子・鳳翔を敵に回すことになる。
加えて、麗宝は名門・龍家の息女であり、この国の旧皇族・伯家の長子の許婚でもある。その彼女に危害を加えようものなら、犯人どころかその一族郎党すら、両家に地の果てまで追われて、極刑を突きつけられるかもしれない。そんな恐ろしい相手など、野心のない人間ならば、むしろ近づきたくすらないだろう。
けれども――――。
途切れた白夜の言葉を継ぐかのように、春蘭がつぶやく。
「麗ちゃんの方はそうかもしれないわね……でも、しーちゃんは……」
(しーちゃんの方は、多分そうはいかない……)
主の言わんとすることを察した白夜が、淡々とそれに答えた。
「史明様ならばご心配は無用です……相手が神獣でもない限りは無敵でしょう」
「その神獣が、一番気になっているのよ」
神獣の力と神力には、いくら史明が天才でも敵わない。
史明も麗宝と同じく鳳翔の官吏だとはいえ、さんざん上司をコケにして来た、全く名ばかりの榜眼様だ。
しかも、歴代の龍家の双子のうち、男の方は例外なく早世しているのだ。
我ままし放題でありながらも周囲から愛されている麗宝とは違い、常人とは違う思考回路の持ち主で人づきあいも悪い史明が、ある日ふらりとどこかへ消えたまま帰らぬ人となったとしても、気にする者はごく少数だろう。
この、目の前にいる忠臣の白夜ですら、史明には決して好意的ではないのだから――――。
ふと春蘭が、思い出したように白夜を見上げた。
「そういえば白夜って、しーちゃんだけじゃなくて、私のダンナ様とも相性が悪かったわよね」
白夜の頬がぴくりと動いた。
「いいわよ、今さら隠さなくたって。どうせバレバレなんだから。まあ、私のダンナ様は――翆月は見た目も性格も、しーちゃんと瓜二つだったけれど」
無言を貫く白夜に向って、彼女が話を続けた。




