祥家の「邪魔者」2
全く同じ動作を重ねる二人を眺めながら、春蘭は瞬時に悟った。
いつからは分からないが、夜伯はこの亡霊に憑依されて肉体を支配されているのだ。だから彼は瀕死の状態でありながら、これほどまでに体を動かせるのだろう、と。
その間はおそらく、本来の夜伯の意識は深層に封じ込められているに違いない。
(でも、このままこんな風に酷使されていたら、いずれ……)
夜伯は本当に死んでしまうだろう。
夜伯によく似た面差しの、精悍な男の影が、少年の姿にうっすらと重なって見える。
取り憑かれた夜伯が春蘭に気づくと、二人の視線が刹那、交差する。
束の間の静寂の後。
ふいに夜伯が微かな笑みを浮かべると、視線を反らした彼が、兵隊長を見据えたまま彼女に呟いた。
「ようやくお会いできた……華蘭様……!」
「華蘭様……?」
いきなり初代の玉皇大帝の名で呼ばれた春蘭が、とまどいを露わにして夜伯を見つめる。
(『ようやくお会いできたって』……私さっき、彼に会ったわよね……?)
それに、この大人びた丁寧な口調は、野性的な外見の夜伯には、あまりにも不似合いだ。
夜伯が恭しく続けた。
「貴女様が覚えておられないのは、仕方がないことです。私はかつて華蘭様の側近でありました、凉淵と申す者です……」
「凉淵、だと……?!」
亡霊の名を耳にした兵隊長の青い顔が、なぜだか見る間に険しくなった。
初代玉皇の側近の、いったい何がそんなにいけないというのか。
そもそもこの天界には、太古の初代玉皇大帝の実態など、ほとんど伝わってはいない。
呼び名も複数あって、どれが本物の名前なのかも分からないくらいだし、その存在自体が疑問視されているほどの謎の人物なのだ。
当然ながらその側近だって、実在したか疑わしいのに……。
当惑した春蘭が、夜伯の背後に居る紫蘭に問いかけるような視線を向けたが、斬られた腕を抑えた彼女の顔は蒼白で、不自然に凍りついていた。
春蘭は初代の玉皇大帝の側近のことなど、全く初耳だ。
けれども、聡い彼女は周囲の反応から、この凉淵という亡霊は、どうやらこの天界にあってはならない存在なのだということを、敏感に嗅ぎ取っていた。
亡霊の正体を知った兵隊長の様子が尋常ではないだけに、春蘭の表情もまた強張ってゆく。
ふいに兵隊長が、今度は彼女に向き直った。
ぞくり、と。
彼女の背筋に悪寒が走り抜ける。
先ほどとは違った殺気に満ちた眼差しだ。
本能的に後ずさりした春蘭を見据えたまま、彼が押し殺した声で小さく呟く。
「どうやら我等の主にとって一番の邪魔者は……貴女だったようだ」
彼が、静かに剣を構えなおした。
怯えた春蘭が、じりじりと後退してゆく。
(『一番の邪魔者』ですって? 私が? どうして……?)
この兵士が、始めから春蘭の能力を知った上でここへ来たとは、到底思えない。
今だってそうだ。神剣の切っ先をこちらに向けている彼が、春蘭の本当の実力を理解しているはずなどない。紫蘭と違って、春蘭をこの剣で殺めることなど、出来はしないのだから。
でも、それならば、なぜ――――?
混乱する春蘭の思考は、芳家の外から聞こえてくるざわめきによって、しばし中断された。
おそらく、最初から邸の外で密かに待機していたのだろう。朽ちた門扉から、兵隊長と同じ白の兵服をまとった兵士達が、今やぞくぞくと芳家の敷地内に流れ込み始めている。
(いけない、このままだと――!)
――――兵士達に包囲されて、逃げられなくなってしまう。
動揺した春蘭達の隙を突いて、突然、兵隊長が神剣の先端をこちらに向けたまま、猛烈な勢いで突進してきた。
「危ない!」
「華蘭様!」
彼女のすぐ近くから、母と夜伯の叫び声が響き渡る。
渾身の力をふり絞った母が、彼女を庇って飛び出ると、さらにその前に夜伯が立ちはだかった。
ズブリと鈍い音がして、兵隊長と夜伯の動きが止まる。
夜伯の手から滑り落ちた剣が、音を立てて床に転がった。
少年の背後から垣間見えた隊長の口の端が、微かに持ち上がった。
例の神剣は、夜伯の横腹を深々と貫いていた――――。
「夜伯!」
紫蘭が悲鳴を上げると、その場で気を失い、崩れ落ちた。
「母様!」
兵隊長が剣の柄を握る手に力を込めなおす。
勝利を確信した彼が、そのまま刀身を横に薙ぎ払おうとした、まさにその時。
夜伯が突然、兵隊長の右腕をつかんで、勢いよく彼を引き寄せた。
同時に、彼が春蘭の簪を抜き取ると、浅黒い隊長の喉に突き立てた後、渾身の力をこめて水平に掻き切る。
次の刹那。兵隊長の純白の隊服が、彼の血しぶきで朱に染まった。
「馬鹿……な……っ!」
彼の唇がそう動いたように見えたが、声は出なかった。
こと切れて倒れた兵隊長の横で、夜伯が血にまみれた腕をだらりと落とすと、力尽きてゆっくりと紫蘭の傍らに崩れ落ちてゆく。
倒れる拍子に、神剣がさらに深く彼の体を貫いた。
「夜伯っ……!」
ほどけた髪をかき上げながら、悲痛な声で春蘭が呼びかける。
「うおおおおおおおおおお――――――っ!」
離れた所から成り行きを見守っていた祥家の手先達が、隊長の死を目の当たりにして、怒りの咆哮を上げながら夜伯に突撃してきた。
待機していた兵士達の数は、予想よりもはるかに多かった。
それだけでも、祥家の本気度が推し量れる。
とはいえ、すでに三人は絶対絶命の状況だ。
残された春蘭は、震える両手を素早く上げると、祈るようにしてきつく組んだ。
彼女はこれまで、こんな大規模な範囲の時を止めた経験などなかった。そのため、力をどこまで加減してよいのかと、刹那、途方に暮れる。
けれども、もしかすると兵士達は、邸の周りだけではなくて、その先にも待ち構えているかもしれない。それに、たとえこの場を切り抜けられたとしても、今後も再び命を狙われることは確実だ。
――――――それならば、いっそ。
春蘭は深く瞑目すると、あらん限りの力を込めて時を止めた。
彼女の神力が、芳家を中心にして急速に外へと伝わってゆく。
それはまるで音の波のように素早く、遠くへと。芳家の周囲を飲み込んだ後も、さらにその遥か彼方へと天界を波状に覆いつくしてゆき――――。
そして、とうとう生きとし生ける者の全てが不自然に動きを止め、不気味なほどに静まり返った天上の世界が完成した時。
彼女はようやく目を開いて面を上げた。
これでもう、誰にも彼女の邪魔はできない。
春蘭の鼓動と息遣いだけが、妙に大きく鼓膜に響く。
しばし心配そうに紫蘭と夜伯を見つめた後。春蘭は静止した兵士達の間を、しっかりした足取りで歩き始めた。
行き先はすでに決めてある。これから取るつもりの自分の行動にも、微塵も迷いなどない――――。
(母様達と三人で、絶対に生き延びてやるわ)
三人で幸せに生き延びる夢。
そのためになら、どんな手段を取ることも厭わない。
(そっちがその気なら、こっちも手加減してやる気なんか更々ないわよ!)
来るなら来い、と彼女は息巻いた。
その時には、己の全力をもって返り討ちにしてやるまでだ、と。
もう誰にも大切な人達を傷つけさせはしない。
歩きながらそう決意を固めた春蘭が、怒りに燃える瞳でひとり呟いた。
「見ていなさいよ――――祥家!」
彼女の視線の先には、これから訪れる祥家の玉皇大帝が御坐す水晶の天宮が、煌びやかに輝いていた。




