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祥家の「邪魔者」1

(しまった! 母様…!)

 あわてて視線を紫蘭へと戻したが、遅かった。

 ずさっ。

 蘇芳(すおう)に銀糸の刺繍を散らした胞を翻しながら、母が勢いよく倒れてゆく。

「母様――?!」

 いったい母に何が起こったのか。眼前に映し出される陽炎(かげろう)のような場面に視線を戻した春蘭が、恐怖のあまりに声を上げる。

 つい今しがたまでは単なる杞憂だった想像が、最悪の形で現実になってゆく様を、なす術もなく彼女は見ていた。

 悪寒が全身に広がり、心臓の鼓動だけが妙に大きく響く。

 単なる悪夢だと思い込みたかった。これまでの慎ましくも幸福な暮らしが、いつまでも続くと信じたかった。

 だが、祈るように母の姿を見守っていた春蘭の瞳が、蘇芳の胞にじわりと広がる染みに気づくと、彼女は大きく息をのんだ。

 染みは徐々に紫蘭の袖を深紅に染め上げていく。

 横たわった母の胞の袖は、ざっくりと切り裂かれていた。

 

――――これは、夢ではなく現実なのだ。

 

 視線を胞に釘付けにしたまま、残酷な光景に思わず口元を手で覆う。

 かろうじて悲鳴を飲み込むと、溢れでる涙を拭いもせずに、春蘭は己を責めた。

 母は斬られたのだ。おそらくは、白銀龍によって作られた、あの神剣で。

 まさかそんなことが出来るわけがない、と心のどこかで高をくくっていた。

 母がいつものように穏便に応対していれば、今回も嵐は無事に過ぎ去っていくに違いないと、自分に言い聞かせていた。

 その結果が、これだ。

(私が守らなかったせいで、母様が――――!)

 身動きも出来ぬまま、食い入るように映像を見つめていた春蘭が、ふいにびくりと反応した。

 倒れた紫蘭の手が、わずかに動いたのだ。

 母が、床に手をついて、必死に体を起こそうとしている。

(――――よかった! 母様はまだ生きている!)

 母の近くから剣戟の響きが聞こえてきたが、春蘭は母から目が離せないまま無視した。

 娘の視線を感知したのか。紫蘭が小さく唇を動かして、虚空に向かって囁いた。


((春蘭……来ては……だめ……!))


 母の唇の動きは、そう訴えているように見えた。

 春蘭の口元から、かすかに嗚咽(おえつ)が漏れた。

 少なくとも、母はまだ生きている。

 まだ全ての望みが潰えたわけではないのだ。

 ならば今度こそは手遅れにならないよう、今すぐに行動を起こさなければ。

 けれども――――。

 この期に及んでもまだ、春蘭には戸惑いがあった。

 もどかしさと恐怖の合間で、彼女がきつく拳を握りしめる。

 彼女は常日頃から母にきつく言い渡されていたのだ。

 たとえ母に何があろうとも、決して己の本当の力を他人に知られてはならないと。

 ただでさえ春蘭の血筋は祥家にとって厄介だ。そのうえ彼女の能力まで気づかれてしまったら、紫蘭の次に暗殺の標的になるのは、まちがいなく春蘭自身になるのだから。

 だが、目の前に映る母が、かすかな呻き声を上げて斬られた腕を押さえた時。

 春蘭の心の迷いは、一瞬にして吹き飛んでいた。

(私ったら、いったい何をやってるの?!)

 両手で自分の頬をぴしゃりと打つと、彼女が顔を上げる。

 生来の生命力と知性の輝きを瞳に取り戻すと、彼女は弾かれたように(きびす)を返した。

 全速力で邸の表戸に向かって走りだすと、母ゆずりの黒絹の髪が薄紅色の胞の上で勢いよく跳ね、背後でたなびく。

 かつての祥家の栄華を偲ばせる回廊の長さが、ひどくもどかしく感じられ、ついには中央の庭園を強引に突っ切りながらも、彼女は焦燥に駆られた。

 


 このままではきっともう、間に合わない――――。



 倒れた母の姿が脳裏に浮かび、再度全身に鳥肌が立つ。

 母の命は風前の灯だ。直ちにこの場から神剣を持つ兵士に攻撃を開始しなければ、殺されてしまうだろう。

 祥家に前玉皇以上の神力を察知されることなど、もうどうでもよかった。

 どうせひっそり暮らしていたって、こうして向こうから仕掛けてくるのだ。それならいっそ、自分の神力を天界にあまねく知らしめて、傲慢な祥家を牽制してやってもいいのではないか――――。

 だが、攻撃の手法を目まぐるしく考えながらも、彼女は躊躇した。

 実は、問題はそれだけではないのだ。

 春蘭は、遠隔での神力操作が苦手だった。

 これまで本当の力を隠すために、人目につかない狭い空間でのみ力を使うようにしていたからだ。だから、もしも母を守ろうとしてこの場から兵士達を攻撃したとしても、逆に母に危害を加えてしまう確率は、限りなく高い。

 唇を噛みしめながら、必死に彼女は考えた。

(ここから入口の広間を攻撃するのは危険すぎるわ。だったら――――)

 物理的な攻撃ではなくて、兵士達の時を止めてしまえばどうだろう。

 それならこの場からでも可能だし、術が母に及んでも彼女を傷つける心配はない。動きを止めた兵士から神剣さえ奪い取ってしまえば、彼等など赤子も同然だ。

 素早くそう判断した春蘭が、兵士達に狙いを定めるべく、再び玄関口の状況を神力で浮かび上がらせる。

 すると。

 母のすぐ正面で、先ほどは視界に入れていなかった誰かが、母を庇うようにしながら兵士達と戦っていた。

(えっ、あれは……!)

 いつから彼はそこに居たのだろう。

 長身痩躯に、束ねた長い黒髪。ボロボロになった血まみれの黒い胞――――。

 母が連れてきた少年、夜伯だ。

 彼の肩に開いた新たな傷からは、真紅の液体が滴っていた。

 手負いの獣そのものの目つきと気迫で、彼が周囲の兵士達を威嚇している。

(何で……いったいどうして彼が……?!)

つい先ほどまで、兵士達のターゲットは明らかに母だった。

 ならば彼は、彼等の意識が母に集中している間にとっくに逃げおおせたはずなのに、なぜ自ら隠れ場所を抜け出してまで母を守っているのか。

 もう全身傷だらけで、自分もいつ倒れるか分からないような状態のはずなのに――――。

 『夜伯は紫家の忠臣の子孫』―母の言葉がふと脳裏に蘇る。

と、少年の体が、微かにふらつき傾いた。

(危ない――!)

 兵士の一人がすかさずその隙を突いて、背後の紫蘭へと回り込もうとする。

 だが、それに気づいた夜伯がとっさに体制を立て直すと、目にもとまらぬ速さで剣を一閃した。

「ぐあっ……!」

 彼に腹を斬られた兵士が、前のめりのまま崩れ落ちてゆく。

 夜伯の手には、下民には不似合いな美々しい剣が握られていた。

 おそらくは、他の兵士から奪った物だろう。

 少年の周囲には、すでに五人の兵士達が倒れていた。

 彼等が祥家の手先なのか、玉皇の名を受けてここに来たのかはわからない。

 けれども、いずれにしろ天界の兵士達は強者揃いだ。その彼等を相手にここまで戦えるこの少年は、いったい何者なのだろう――――。

 春蘭は走りながらも、時を止めるのすら忘れたまま、しばし夜伯の動きに目を奪われていた。

「ぐふっ……!」

 彼がまた一人、大柄な兵士をなぎ倒す。

 残るはあと一人。例の神剣を携えた、隊長らしき色黒の兵士だ。

 肩で息をしている夜伯が、その隊長へと向き直った。兵士達の長の顔を認識した彼の面に、緊張が走る。今度ばかりは分が悪いと悟ったのかもしれない。

(あの神剣って、龍の眷属である(みずち)にも効くのかしら……?)

 夜伯は蛟だと兵隊長は話していた。

 蛟には龍のような強い神力はないが、それでもうかつに動けばどんな目に遭うかも分からない。

 さすがの夜伯も剣を構えたままで、身動きがとれないでいる。ただ一層の凶暴さを増した瞳で相手を見据えるばかりだ。

 夜伯と同じくらいの上背がある、がっしりした隊長もまた、神剣の切っ先を彼に向けたまま動かない。

 ところが――――。

彼と相対した兵隊長の双眸は、なぜか驚愕したように見開かれていた。浅黒い顔からも、心なしか血の気が失せているような気がする。少なくとも、相手を追い詰めている者の反応には、とても見えない。

「母様!」

 隊長の様子を不審に思いつつも、ようやく広間までたどり着いた春蘭は、そのまま神力での透視を止めて、夜伯の背後にいる母に駆け寄ろうとした。

 が、少年の近くを通り過ぎようとした時。春蘭は思わず歩を止めて、驚きも露わに彼を二度見する。

肉眼であらためて少年を見た時。神力で透視していた時には瞳に映らなかった何かが、彼の背後で陽炎のように揺れているのに気が付いたからだ。

それは明らかにこの世のものではない、魂だけの存在――――。

「夜伯……?!」

 つい声をあげてしまった春蘭に、少年と幽霊が同時に振り向いた。




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