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放たれた黒龍4

「藍将軍は、昔黒龍が現れた時、近くにおられましたか?」

「いいえ」

振り向きざまにそう答えた彼が、訝しげに悠翠の眼を覗き込む。

あの時、何故か旺劉は、月華を除く全ての者達に厳命していたのだ。黒龍と闘う彼等の周囲には、決して近付かないようにと。

(将軍が旺劉兄上の命令に背く訳がないか……)

少し落胆しながらも、悠翠は再び訊ねた。

「黒龍とは、一体何者なのでしょうか」

「さあ。人界から来たらしいということ位しか、某は存じませぬ」

「そうですよね……いえ、何でもありません」

「…………では、失礼いたしまする」

どこか物言いたげな表情でそう返答した虎嘯が、今度こそ謁見室から去って行くと、再び大きな溜息をつきながら、悠翠が玉座に深々と身をもたれかけた。

(彼は、私と同じ様にあれを耳にしていたわけではない……)

失望と同時に、微かな安堵を感じて悠翠は、この日何度目かの溜息をついた。

黒龍と闘う旺劉達の身を案じて、こっそり物陰から忍び寄った彼は、あの時確かに月華の悲痛な叫び声を聞いた気がしたのだ。

((旺諒!))

(あの黒龍は本当に旺諒兄上だったのだろうか……)

もしそうだとすれば、旺劉が何故月華を遠ざけずに黒龍と対峙していたのかという謎も、おのずと解明される。

旺諒と月華の仲は、龍界では旺劉や虎嘯を含めたごく一部の者達にしか知らされてはいなかった。

月華の夫となる者は婚姻と同時に、神具すら創れる彼女の能力をも手に入れられる。つまり彼女の相手が旺諒ならば、龍界が天界にも匹敵する力を持つことになるわけで、二人の関係が公になれば、それが各界を揺るがす大騒動に発展することは必至だからだ。

二人は大抵、人界で逢瀬を重ねていた。しかも元来、月華が天界からの使者として龍界を訪れる時には必ず、王族自ら彼女を歓待するのがしきたりだ。だから龍界で常に旺諒が彼女と行動を共にしていても、それはごく自然なことだと、幸い周囲は気にも留めてはいなかったし、馬鹿と天才という通常有り得ない組み合わせが恋人同士などとは、恐らくは想像すらしなかっただろう。

(旺劉兄上はもしやあの時、月華殿が旺諒兄上の正気を取り戻すことを期待していたのだろうか)

それともこれは悠翠の思い違いで、旺劉は単に彼女の浄化能力を戦力として頼みにしていただけなのかも知れない。

旺劉も月華もいない今となっては、真実を確かめる術すらも無いのだが。

(常に旺劉兄上達の近くに控えていた虎嘯ならば、何かを知っているのではないかと期待していたのに……)

何れにしろ、万が一にでも旺諒があの黒龍であったならば、龍界開闢(かいびゃく)以来の醜聞であることだけは間違いなかった。

次の謁見者の名前を近従が大声で告げ、悠翠が玉座にきちんと座り直そうと腰を上げた時。

突然、鈍い衝撃音と共に、謁見の間が大きく揺れた。

(何だ……?!)

思わず玉座にしがみ付いた悠翠の耳に、あちこちから物が壊れる音や悲鳴が飛び込んで来る。

季節を表現する美しい宝玉の花々が、次々と花瓶ごと床に転がり砕け散った。

玉座すらも揺るがす振動が、二度、三度と龍宮を襲う。

喧騒が一際大きくなる中。聞き慣れた呼び声が室に響き渡った。

「悠翠殿下!」

ノックもせずに、体当たりせんばかりの勢いで扉を開け放った虎嘯が、器用にバランスをとりながら真直ぐ彼に向って来る。

「失礼、こちらへ!」

問答無用で彼の腕を掴んだ将軍が、引きずる様にして悠翠を謁見の間から連れ出そうと急いだ。

その剣幕に驚いた彼が、歩きながら虎嘯に誰何(すいか)する。

「藍将軍、これは一体?!」

「黒龍が現れました!」

「黒龍が?! ですが、龍宮には月華殿の張った結界がまだ残されている筈では?!」

亡き月華の強固な結界は、彼女の遺骸である結界石を使ってそのまま維持されている。

それなのに、何故――――?!

(何故、黒龍が穢れを防ぐ為の結界を通過出来るんだ――――?!)

以前も黒龍は、月華の結界を難なくすり抜けて龍宮を襲った。

そしてその後、月華に討たれた筈の黒龍の亡骸は、跡形も無く何処かへ消えてしまったという。

「……某に詳しいことは分かりませぬ。しかし皆は、珀輝殿が黒龍を連れて帰って来たと口々に騒いでおりまする」

「珀輝が?!」

「左様です。残念ながら」

虎嘯が衛兵達に問い質したところ、黒龍は龍宮門の方から珀輝と共に忽然と現れたと口々に証言したのだという。

「恐らくは珀輝殿が、黒龍を手引きしたのではと……」

「まさか、そんな――――!」

「だがそれ以外に、なぜ黒龍が結界を通過出来たのか説明がつきませぬ」

虎嘯の心中では、珀輝は既に有罪と見做されているのだと悟った悠翠が、愕然として彼を凝視する。

龍宮最奥部の堅牢な個室に悠翠を送り届けると、「何があろうと決してここから動いてはなりませぬぞ」と念を押して、老将は去って行った。

((珀輝は黒龍の子などではない))

旺劉は常日頃から、皆にこう言い聞かせていた。

旺劉はやはり、間違っていたということなのだろうか。

けれども口には出さなくても、他ならぬ悠翠自身が、珀輝に黒龍の血は流れていないとずっと感じて来たのだ。

他者を見る目にだけは多少の自信がある。なぜならこれまで彼は、その能力のみを頼りにして、何とか白龍王の代理を務めて来たのだから。

(確かめたい……どうしても再びこの目で黒龍を見てみたい……!)

「すまない、藍将軍」

その場で一言、真っ先に自分の所へ駆け付けてくれた忠臣に心からの謝辞を呟くと、意を決して彼は部屋の扉を開けた。

旺劉は最後まで養い子の珀輝の身を案じ、彼を追って手負いのまま人界へと消えて行った。

ならば旺劉の代理である自分には、珀輝が何者かという真実を明らかにする義務がある。

部屋から外へと足を踏み出そうとした彼は、ふと妙な違和感を覚えて立ち止まった。

この部屋は確かに安全な場所だが、謁見の間の隠し扉は王族専用の脱出経路に通じている。虎嘯は一体どうしてあの経路を使おうとはしなかったのだろう。

黒龍は秘密経路の出口から掛け離れた、広壮な竜宮の反対側を襲っている筈なのに。あちら側からならば、悠翠にも遠巻きに珀輝達の様子が見られたかも知れないのに。

それに、ここには外の様子を映せる神鏡すらも、置いてはいないではないか。

思案しながら周囲を見回していた彼の全身が、ふいにざわりと粟立った。

(この部屋には……窓が一つも無い)

「誰か、神鏡を持って来ておくれ」

彼の声が耳に入っていない訳が無い。

けれども、『王』である筈の彼の頼みを、その場に残された護衛の兵士達は黙殺した。

兵士達は先程からずっと、一言も悠翠の問い掛けに返答すらしない。恐らく虎嘯からそう命じられているのだろう。

まさかと思いながらも、悠翠は不安を覚えずにはいられなかった。

青い顔で室外の窓際へと駆け出そうとする彼の行方を、兵士達がすかさず遮った。

「どうぞ、部屋へお戻りください」

丁寧だが、有無をいわさぬ口調だ。

どうあっても彼に、外の様子を見せる気は無いらしい。

悠翠の疑惑が、確信に変わって行った。

――――――やはり虎嘯は、私の見ていない所で黒龍ごと珀輝を殺すつもりなのだ。

「うっ……!」

急に悠翠が苦しそうに胸を押さえて(うずくま)った。

「どうなされましたか?!」

慌てて近くに集まって来た兵士達に、彼が護身用の催涙スプレーを間近から吹き付ける。

強烈な痛みと共に視界を遮られた兵士等が、咳込みながら悶える間隙(かんげき)を突いて、悠翠は喧騒の中心へと向かって駆け出した。

頭上に重くのしかかる王冠を、手で(わし)づかみに取り去ると、白龍王の代理という千年間の(くび)()から、徐々に心が解放されて行く。

(珀輝、どこに居る――――?!)

他人ひと任せではなく、己自身の目で全てを確かめなくては。

恐らくは最期まで養い子の身を案じていた、兄の旺劉の為にも。



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