放たれた黒龍5
悠翠が、龍宮門付近へ向かって龍宮の回廊を駆けていた頃。
史明はやみくもに龍宮に体当たりし続ける旺劉を正気に戻そうと、必死の努力を続けていた。
「旺劉、止めるのだ!」
神鐘で操られた旺劉の目を覚ますには、史明が直接彼の頭に触れる必要がある。
しかし、手負いとはいえ、旺劉は歴代の白龍王の中でもずば抜けて体格の良い武龍だ。虚弱に近い珀輝が彼の頭を触ることなど、限り無く不可能に近い。
「旺劉!」
史明の呼び掛けを無視して、再び龍宮へ突進してゆく彼の行く手を、灰白色の龍が結界を張って阻む。
((ぐおおおおおおん!))
くぐもった咆哮を上げた旺劉が、忌々しそうな目で史明に振り返ると、目も止まらぬ速さで鋭い爪を一閃した。
「うっ――――!」
史明の肩がざっくりと口を開け、鮮血がほとばしる。
邪魔者の動きを止めた黒龍が、すかさず龍宮へと直進して行く。
「頼む、戻るのだ、旺劉!」
既に数か所を切り刻まれている史明が、痛みを堪えて再び彼を追った。
(急がねば……衛兵達が援軍を連れて戻る前に、旺劉を逃さねば!)
龍軍本隊が到着するまでに、何としてでも旺劉の正気を取り戻さなくてはならない。
ふいに旺劉が、史明の顔面へ向かって瓦礫を投げつけて来た。
(――――!)
飛んで来た宮城の一部を避けると、その隙をついた旺劉が、またしても龍宮に体当たりをする。
重苦しい音が響き渡った後に、女達の悲鳴と「あっちだ!」という勇ましい男達の怒鳴り声が聞こえて来る。
焦る史明を尻目に、またしても突撃態勢に入った旺劉だったが――――。
急に彼が後ろへと飛び退ると、つい今しがたまで旺劉が居た空を、人の頭ほどもある鋭い矢先が音を立てて切り裂いた。
矢が飛んで来た方向へと反射的に史明が振り向くと、通り過ぎた筈のそれはひとりでに急旋回して、再び旺劉を背後から襲って来る。
「危ない、旺劉!」
史明がすんでのところで旺劉を突き飛ばし、白龍王を攻撃から守った。
(これは……確か龍軍の藍大将軍が使用していた神矢だ!)
「お久し振りですな。珀輝殿」
「……藍将軍!」
いつの間に彼の傍まで近寄っていたのだろうか。
獲物を前にした猛虎の如き眼光を放つ虎嘯が、人形のままかつての主の養い子を冷たく睨め付けている。
この場には一番現れて欲しく無かった歴戦の猛将に向い、史明が口を開こうとした時。
旺劉が地響きの様な咆哮と共に、いきなり虎嘯に襲いかかった。
((ぐおおおおおおおん!))
将軍が望むところとばかりに、直ちに腰に佩いた長剣を鞘から抜き放って飛び上がる。
彼が黒龍の胴体を真っ二つに断つべく、力まかせに剣を振り下ろした。
「危ない!」
電光石火で繰り出された剣が、あわや旺劉の背に触れる寸前に。
史明が強固な結界を二人の間に張った。
長剣が、盛大な音を立てて弾き飛ばされる。
動物的な衝動で、すかさず旺劉が将軍を襲おうとするが、こちらも結界に阻まれて身動きがとれない。
やみくもに虎嘯に向おうとする旺劉の背中に刹那、隙が出来た。
(――今だ!)
史明が渾身の速さで、背後から彼の登頂に触れる。
「うっ――!」
瞬時に振り払われた史明が、新たな傷を負ってその場に倒れ込んだ。
それと同時に、これまで狂った様に攻撃を続けていた旺劉の動きが、ぴたりと止まる。
黒龍の不審な挙動に警戒しながらも、地に落ちた剣をゆっくりと拾い上げた虎嘯が、冷めた声で史明に言った。
「ご自分が連れて来られた黒龍にやられるとは、何とも皮肉なことですな」
恐らくは結界石を身に付けているのだろう。旺劉の放つ瘴気をものともせずに、彼が続ける。
いつの間にか虎嘯の手には、大振りの神矢が戻っていた。
史明の顔色が見る間に青くなる。
大抵の神具は、結界を通過出来るからだ。
「藍将軍、この黒龍は旺劉だ! 早く手当てをせねば死んでしまう!」
予想外だった史明の言葉に、虚を衝かれた将軍の動きが一瞬止まる。
だが直ぐに、先程から化石の様に動かなくなった黒龍を一瞥した彼が、怒りに震えながら大声で吠えた。
「某は黒龍を主に持った覚えなど無い! 白龍王を侮辱するのであれば、例え主の養子であられても、容赦はいたしませぬぞ!」
気が付くと史明達の周囲は、遠巻きに彼等の様子を伺う龍軍の兵士達に囲まれていた。
兵士達は一様に弓に矢をつがえたまま、微動だにせず将軍の指示を待っている。
(まずい、旺劉――――!)
この場を何とか切り抜けなくては。史明が必死に叫ぶ。
「旺劉は人界で捉えられ、黒龍にされたのだ! だがまだ望みはある! 彼の意識は……」
史明が言葉に出来たのは、そこまでだった。
「黙られい!」
虎嘯という名そのものの、虎の吠え声を彷彿とさせる咆哮を上げた老将が、憤怒のあまりに顔を赤らめながら大型の弓に神矢をつがえると、彼の言葉を遮った。
「白龍王ほどのお方が、例え手負いであろうとも人などに捉えられる筈が無い! 当時、旺李殿はまだ龍界におられた。あの頃人界に居た龍といえば、珀輝殿くらいしか存じませぬ! 月華殿の結界を黒龍に通り抜けさせることも、龍界でそれが出来るのは珀輝殿以外におられぬではないか!」
「だが、これは旺劉だ!」
「万が一、かつてそれが白龍王であらせられたとしても、今はもう黒龍ぞ! 某はただ黒龍を倒し、主の仇を討つのみ!」
彼が真直ぐに矢を引きながら、旺劉に向って狙いを定めた。
虎嘯は本気だ。
(我の結界では神矢を防げぬ――旺劉!)
旺劉を庇って彼の前に進み出た史明に、老将が放った神矢が容赦なく襲いかかった。




