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放たれた黒龍2

こうして龍の姿に戻るのは、一体何年振りのことだろう。

蒼穹(そうきゅう)に灰白色の(うろこ)を輝かせながら記憶を辿る史明の意識が、次第に珀輝のそれへと帰って行く。

思えば彼は旺劉に拾われて以来、常に王の後ろ姿を追っていた。

初めて旺劉に会った時。龍宮では遠い存在に感じられた白龍の王の姿を、それでも遠巻きに眺めていた時。賢者の誉れ高い王に少しでも近付きたくて、ありとあらゆる学問を貪欲に吸収していた時。

見ていたのは、そしていつの日か追い付きたいと渇望していたのは、いつも彼に語りかけていた様にすら感じる、あの広い背中だった。

その輝いていた背中が今は、まるで彼に助けを求めて絶叫しているかの如くに、周囲にどす黒い瘴気を放ち続けている。

黒龍が通り過ぎた穢れの痕跡を辿りながら、彼は旺劉に追い付こうと懸命に空を駆けた。弱っているとはいえ、元々強健な旺劉である。ひ弱な史明には、引き離されないようにするだけでも精一杯だ。

海へと続く黒河の支流に着くと、迷わず飛び込み龍界への近道を目指す。人界では、『門』と呼ばれる龍界へと通じる扉が、世界中の水底に散在している。かつて神具を用いて、龍のみを通過させるよう細工を施されたそれは、異界からの侵入者を拒む装置であると同時に、龍界への最短通路でもある。どうやら旺劉がそれに向ったらしいと気付いた史明は、彼を追う速度を上げるべく全力で足掻(あが)いた。

『門』を過ぎてしまえば、そこはもう龍界だ。しかも王であった旺劉は、王族のみが使える龍宮直通の『龍宮門』を無意識に使用しようとする可能性が高い。

今の旺劉は手負いの獣だ。旺李の神剣で斬られた時の(きず)(あと)は、いまだに生々しく彼の体に刻みつけられたままなのである。しかも、意識を封じられている彼に、龍界の選りすぐりの武龍達を相手どることなど、限り無く不可能に近い。彼がこのまま龍宮に乱入したならば、結果は明白だ。

どう転んでも旺劉に勝ち目などある筈が無かった。待っているのはただ、黒龍としての死のみだ。

黒龍の瘴気に当てられた魚達が、意識を失ったまま辺りに漂っているのが視界に入る。

旺劉が、近くに居る――――。

「旺劉! どこにおる、旺劉!」

普段は決して見せることの無い、必死の形相で史明が叫ぶ。

「珀輝だ、旺劉! 頼む、龍界へは行くでない!」

生き物達の姿が消えた異様な静寂の中を、史明は瘴気へ向かって真直ぐに近付いて行った。

行く手の水底に、黒い闇が(うごめ)いている。

(居た……旺劉!)

黒龍は、朽ち果てた大きな沈没船に(ふさ)がれた『門』の前で、立ち往生をしていた。

やみくもに振り回す巨大な尾が、腐食で(もろ)くなっている船体を、少しずつ打ち砕いている。

「旺劉!」

史明の呼び掛けにびくりと反応した彼が、のろのろと後ろを振り返る。

「行くな、旺劉! 我と共に戻るのだ。このまま龍界へ行けばそなたは殺されてしまう!」

だが彼は、それ以上は何の反応も示さなかった。再び無言で『門』へと向き直ると、先程と同じ単調な作業に没頭する。

既に沈没船は、半分ほどの大きさにまで壊されていた。旺劉が『門』を開けられるようになるのに、そう時間は掛からないだろう。

「旺劉……やめるのだ!」

史明が旺劉を止めようと、後ろから彼の体を拘束しようとした時。

突然振り向いた彼が、鋭い爪で史明の喉笛を切り付けた。

「――――!」

間一髪で身をかわした史明の首筋から、微かな血の臭いが漂って来る。

疑いようなどある筈も無かった。彼はたった今確かに、かつての養い子の命を奪おうとしたのだ。

「旺劉……!」

彼はただ操られているに過ぎない。分かってはいながらも、理性では押さえきれない衝撃が史明を襲う。

『門』の一部はもう船体の陰から露出していた。彼がそれを開くまでの時間は、あと僅かしか残されてはいない。

『龍宮門』には神具による防御の他にも、生前月華により施されたという結界が張られてある。しかし、黒龍と化したとはいえ、当時は王であった彼を彼女の結界が拒む確率は、限り無く低いと思われた。

(もう時間が無い……! 少々手荒くなるが、仕方が無い!)

「――――すまぬ、旺劉!」

史明が彼をその場に足止めするべく、王の周囲に強固な結界を張り巡らせようとした、その瞬間。

不穏な空気を察した彼が、渾身の力で船の残骸を史明に向って投げ付けて来た。

まさに今旺劉の周りに張りかけた結界を使い、史明がかろうじて己の身を守る。

強烈な力で結界に叩きつけられた船が砕け散り、吹き飛ばされた破片が爆煙の如くに行く手を遮った。

「――――旺劉!」

衝撃の余波が収まるまで、なす術も無く史明はその場に佇んでいた。

そして乱舞する破片で隠されていた視界が、再び開けた時。

灰白色の龍の瞳に映されたのは、開け放たれたままの『門』と、その向こうで広壮たる龍宮へと直進して行く旺劉の姿だった。


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