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放たれた黒龍

蓮青が主の命令に沈黙で応えたことに対して、旺李が罰を与えようと神剣の柄を握り直した時。

 本殿へゆっくりと近付いて来る、一人の足音が聞こえて来た。

 その、人ならぬ灰色の気の持ち主を察した旺李が、蓮青を残したまま正殿の入り口近くへと進み出る。

 間もなく本殿の結界内に、鳳翔に押し付けられた地味な縹色の袍に身を包んだ、一見美女と見紛う中性的な史明が麗姿を現した。

 「ようやく来たな」

 早速旺李が、まな板の上に降って来た鯉である史明を、どう調理してやろうかと狂喜する。

しかし彼とは対照的に、視界に入っている筈の旺李を完全に無視した史明は、巨大な祭壇の上にまるで(にえ)の如くに載せられている旺劉に気付くと、脇目も振らずにそちらへと走って行った。

 「旺劉……!」

 史明が、旺劉の周囲に張り巡らせた結界を破ると、あたかも千年振りに会えた愛しい恋人に寄り添うかの様に、臭気と瘴気にまみれた旺劉のどす黒い体を抱き締める。

 本殿内の結界が解け、瘴気が旺李達にも襲いかかって来ると、結界石を身に付けながらも顔を顰めた旺李が、これを見て確信を得たとばかりに呟いた。

 「こいつ、やっぱり黒龍の子だったんだ! 結界石が無いのに黒龍の瘴気を受けても平気でいられるのが、その証拠だ!」

 旺李が独り、静かな本殿でヒステリックな笑い声を上げ続ける。

けれども、彼と同様に驚いていた蓮青は、衝撃が冷めやると共に全く逆のことを確信し始めていた。

――――――珀輝は黒龍の子ではない。

そもそも、ただ灰色の鱗を持つからといって、黒龍と白龍の子だと断言する者がどうかしていたのだ。 憎悪と妬みで目が曇りきっている旺李でもあるまいし。

史明には瘴気も無いし、黒龍特有の狂気も悪意も感じられない。

しかも、彼が進んで人を害そうとしたことなど、一度だって無かったではないか。

確かに無表情で無愛想だし油断ならない一面もあるが、あの知能の高さと、今目の前で証明された情の深さは、龍達が忌み嫌う『黒龍』とは対極の性質だ。

(それに――――)

南陽で初めて史明に声を掛けた時のことを、蓮青は思い出す。

何故だか言葉では説明が出来ない。 けれども、史明が彼の瞳を見た瞬間、何かが激しく彼の心を揺り動かしたのだ。

まるで生れた時から巡り会うのを待っていた相手に、深い眠りから呼び起されたかの如くに――――。

その正体を知りたいと思う気持ちから、いつしか彼は深入りしすぎていたのかも知れない。

自分の立場も忘れて蓮青は、史明に向って叫んでいた。

「気を付けろ! 旺李が麗宝ちゃんを狙ってるぞ!」

「蓮青……?」

たった今蓮青の存在に気付いたらしい史明が、僅かに眉を潜めながらも、瞬時に全てを理解したという様子で彼を見下ろす。

「蓮青、そなたはあの『蓮青』だったのだな。 旺劉が黒龍となってからは、旺李が主になったのであろう?」

「お前、どこでそれを……?!」

「我は昔、龍宮にあった禁書を密かに読み漁っていたことがある。 『蓮青』については、その中に書かれてあった。 勿論、旺劉も我が禁書を読んでいたことは知らぬがの」

(嘘だろ、龍宮の禁書だって――?!)

龍宮の禁書には皆、月華により厳重に封印が施されてある筈なのに。

呆気にとられた蓮青が、思わず旺李を見遣る。

しばし彼と同様の反応を示していた旺李だったが、我に返ると直ちに蓮青に向って怒鳴り付けた。

「これだから、珀輝の様な泥棒猫を龍宮に住まわせるのが間違いだと言っていたんだ! だが、今は先ず蓮青の処分からだ。 龍紋よ、蓮青に裏切りの罰を! 二度とこんな真似をしようと思わない様に、たっぷりと苦しむがいい!」

 「ぐわあああああああああ――――――っ!」

 見ている者が目を背けたくなる様な形相で、泡を吹きながら蓮青が悶絶し始めた。 

 「止めろ、旺李!」

 史明が旺劉から離れて、蓮青に駆け寄るが、龍紋の契約は第三者に破棄出来る性質の物ではない。 

 「あああああああああ――――――――っ!」

 のた打ち回る蓮青の絶叫が、本殿内の壁に木霊する。

 「蓮青! 旺李、止めるのだ! 早く!」

 だが旺李は、苦しみもがく蓮青に嘲笑の一瞥をくれただけで、彼を無視して神剣を構える。

 「お前は今、人の心配をしている場合じゃない筈だけどな」

 「旺李……そなたが旺劉を元に戻してくれれば、我はその直後にでも斬られて構わぬ!」

 「駄目だ。 父は王太子となる筈の俺を裏切って、お前を選んだ。 お前を葬った後は、父を奈落へと送ってやる!」

 「旺李、そなたは既に凱帝国で、望み通り皇帝になったのであろう?! これ以上何を望むというのだ?!」

 未だに叫び続ける蓮青の声が邪魔で、ろくに会話が聞き取れない旺李が、しぶしぶ彼への拷問を中断する。

会話を邪魔する絶叫が消えると、怒りに顔を歪めた彼が吐き出した。

 「俺は……俺は一度だって、人界の皇帝になりたかったことなど無い! 望んだ物など、結局何一つ手に入らなかった! それもこれも、皆お前のせいだ!」

 「旺李?!」

 完全な八つ当たりだと分かってはいる。

それでも史明は彼の言葉に、驚かずにはいられなかった。

 旺李はいつだって、史明が羨む程に何でも持っていたのではなかったか。 旺劉という父親に美しい白龍の母。 純血種の白龍という誇りとそれに対する人々の敬意。 王子としての何不自由無い生活――――。

 それら全てをもって尚、これ程までに満たされない思いを抱えて苦しんでいるというのか。

 「――死ね、珀輝!」

 旺李があらん限りの憎悪を込めて、史明に向って神剣を振り上げた、その時。

 祭壇の上から、今にも途絶えそうな小さな呟きが聞こえて来た。

 ((……珀……輝…………))

 旺李の手が、空中でピタリと静止する。

 史明も思わず壇上を振り返り、旺劉を直視した。

 (今のは、まさか……?!)

 あまりに旺劉への想いがつのって、幻聴を聞いたのではないかと彼は疑う。

 けれどもそれならば、旺李までもが旺劉を注視している筈が無い。

 ((……珀……輝…………))

 今度は確かに幻聴などでは無かった。

 本物の、旺劉の声だ。

 「旺劉……我はここに居るぞ、旺劉!」

 普段は無表情な史明が、歓喜も露わに旺劉の呼び掛けに応じる。

 祭壇へと駆け寄って行く史明の後姿を、旺李は愕然とした表情で戦慄(わなな)きながら凝視していた。

 結界を解かれた上で、史明に抱きつかれたり蓮青の絶叫を聞かされたりしたのだ。 黒龍が意識を取り戻しても不思議ではない。

けれども彼は、他でも無い珀輝の名を呼んだ。 かつては継嗣ですらあった、長子の旺李ではなく――――。

旺李の様子など眼中に無い史明は、旺劉はまだ完全に黒龍と化してしまった訳ではないのかも知れないと、一縷の希望を抱きながら落涙している。

 気絶したかと思われた蓮青も、旺劉の声に僅かながらも反応して、ゆっくりと面を上げていた。

 「旺劉、旺劉! 珀輝だ、聞こえておるか?!」

 ((……珀……輝…………)) 

今度は蓮青も、はっきりと白龍王の声を聞いた。

白龍王が元に戻れば、蓮青の主は再び旺劉になる。

希望の光に彼もまた、微かに震えていた。

けれども、旺李だけはただ独りその場に立ち尽くして、苛烈な瞳を父に向けたまま、憤怒のあまりに一層激しく震えていた。

「……何故だ……」

(何故父は、俺ではなく、珀輝の名前を呼んでいるんだ――――?!)

これまでにも何度も旺李は、父は実子である彼よりも珀輝の方を愛しているのではと疑って来た。 けれども常にどこか心の奥底で、最後の望みを捨て切れずに父親の愛情を信じて来たのだ。

それなのに――――。 

旺劉は尚も、まるで何かを訴えようとしているかの様に、史明の名を呼び続けている。

((……珀……輝…………))

「ふざけるな……うるさい、黙れ!」

旺李がこれ以上はもう耐えられないといった様子で、ふいに懐から神鐘を取り出すと、大きく一振りした。

((リィィィィィン…………))

「黙れ――!」

彼の声が本殿の空気を揺らすと、旺劉は再び静かになる。

((リィィィィィン…………))

旺李が再び鐘を鳴らすと、旺劉に命令した。

「このまま黒龍に珀輝を殺させてもいいが……その楽しみはまた後にとっておこう。 先ずは龍界への復讐からだ。 黒龍よ、龍界へ行き、龍宮を始めとする全ての物を破壊して、龍共を虐殺して来い!」

この俺にこんな惨めな思いを味あわせた龍界など、滅びてしまうがいい。 そう心の中で叫ぶ旺李が発した声音は、彼自身が驚くほど暗く禍々しく本殿に響き渡った。

「旺李!」

彼の命令を受けた旺劉が、巨大な黒い体をうねらせたかと思うと、尾の一振りで腐食が進んだ本殿の屋根に大きな穴を開ける。

しばし降り注いでいた瓦礫と木屑の雨が止み、埃の中から蒼穹が現れると、その穴から黒い龍は、史明が止める声にも構わず龍界を目指して空へと飛翔して行った。

「旺李、そなたは何ということを! あのまま龍界へ入れば旺劉は、恐らく逆に殺されてしまう!」

「死ねばいいさ」

――――実の子よりも養子の方が可愛いという親など、死んでしまえばいい。

「旺李――!」

(――――死ぬでない、旺劉!)

急いで黒龍の後を追おうとした史明に聞こえる様に、旺李がわざと大声で蓮青に命令した。

「蓮青! さっき言った通り、龍麗宝を攫って来い!」

史明の全身がその場で凍り付いた。

「旺李、麗宝には手を出すな!」

旺李が残忍極まりない瞳を史明に向けると、この上なく愉快そうに彼に問いかける。

「さあ、お前はどっちを選ぶのかな? 自分の養父か、それとも花嫁(・・)の方か……蓮青!」

蓮青が嫌々といった風情で、のろのろと体を動かし立ち上がった。

「わりい、珀輝。 『蓮青』は主の命令には逆らえないんだ……」

青い顔色で俯いたまま、彼が本殿から出て行こうとする。

「蓮青!」

呼び掛ける史明に、振り向きもせずに彼は後ろ手を振った。

(旺劉、麗宝――――!)

もう迷っている時間は無い。 刹那、瞑目すると史明は、意を決した様に旺劉が天井に開いた穴を見据えた。

眩しい空の青さが、目に刺さる。

(すまぬ……麗宝!)

鳳翔が黒鳳凰を呼んで麗宝を守ってくれることを、全身全霊で祈りながら。

史明は瞬く間に人形(ひとがた)から龍へと姿を変え、旺劉を追って龍界に向い全力で空を駆け抜けて行った。



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