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紅壁勇と黒鳳凰

麗宝達が御龍神山の天宮に侵入した頃。

恵秀はいつもの通り、御史部屋で黙々と仕事をこなしていた。

鳳翔達が実は、黄家ではなく御龍教の禁足地に向ったということは、御史のごく一部にしか知らされてはいない。

もちろん恵秀も、そんな事態など夢にも想定してはいなかった。

他の御史達が出かけて独りになると、相変わらず豪華な調度に囲まれた部屋で、ふと彼は思う。

(麗宝が居ないと、ここも随分静かになるな……)

いつもは彼女が用意してくれるお茶を自分で淹れながら、恵秀は麗宝の動静について考えていた。

龍家の話では、史明が彼女の後を追ったという。

青慎も瑠夏も、黒鳳凰召喚の羽根を持った鳳翔までもが彼女と一緒だ。 彼が心配するようなことなど何もないはずである。

(なのに…………)

――――――ここ数日間の、妙な胸騒ぎは何だろう。

これまでにも、長い間麗宝と会えない時に気持ちが沈み込むことは珍しくなかったが、今回は特にひどい気がする。

やはり、青慎が彼女と一緒のせいなのだろうか…………?

どす黒い感情が、不安と共に押し寄せて来る。

彼女が生まれ変わり、彼を追いかける度に己に言い聞かせて来た。

もしも今生で彼女が他の男を好きになったならば、己は潔く身を退かなければならないと。

今でもその決意は揺るがない。

だが、だからといって彼が平静でいられるかといえば――――それは全くの別問題だった。




恵秀が玻璃(はり)の茶器で茉莉(まり)()(ちゃ)を一服していた時。 彼の御史部屋に紅壁(こうへき)(ゆう)ともう一人の新米御史が、近付きつつあった。

背の高い壁勇が、同年のふっくらした(ほう)御史に漏らす。

「龍同年がいないと、泣く子も黙る御史台も、平和に思えて来るよな」

「そうかなあ、僕は結構寂しく感じるけど。 李御史もきっと寂しがっているんじゃないかな」

いつも麗宝にお茶菓子を分けて貰っている(ほう)御史が、おっとりと返す。

「李御史はそうかもな。 それにしても、俺には龍同年の趣味が全く理解出来ないぞ! 何であの完璧な珀同年を差し置いて、幾ら状元だったとはいえ、ぼーっとしたトロい李家の三男を選ぶんだ?!」

「別にいいじゃないか、龍同年が誰を好きだって。 李御史には、僕等には分からない魅力があるのかも知れないし」

そうだ。 彼女はもしかすると、糸目が好きなのかも知れないね。 あはははは。

呑気にそう笑う蓬御史とは対照的に、壁勇の方は苛立っていた。

麗宝の見た目はともかく、性格は壁勇の好みとは正反対だ。

なまじ仕事が出来て官位も彼より上なだけに、相性が悪い彼女はほとんど目の上のたんこぶですらある。

それにも係わらず、彼にとって龍家の『龍の花嫁』は、しっかり将来の嫁候補の一人に含まれていた。

珀家の息子が婚約者とはいえ、紅家にも全く望みが無いという訳ではない。

麗宝さえその気になれば、珀家との婚約も破談に出来るだろうし、事実彼女は恵秀に夢中で、珀青慎と結婚する気などこれっぽっちも無さそうだ。

百華国で出世を望む者にとって、彼女との婚姻はこれ以上はない程の良縁なのだ。 性格はともあれ、彼女を狙わない理由など無い。

それなのに…………。

(何でこの俺様よりも、あんな(ひる)行燈(あんどん)の方がいいんだよ?!)

故郷の(しゅん)華府(かふ)では、婿がね候補として令嬢達からひっぱりだこである紅家の長男が、己と恵秀を逐一比べながら、歯がみをする。

珀同年の方がいいと言われた方が、ある意味遥かにましだった。

「失礼します! 紅ですが、書類をお持ちしました!」

恵秀の居る御史部屋に入ると、頼まれていた書類を恵秀に差し出す。

(相変わらず、やたら豪華な部屋だよな)

そしていつもやたら散らかっているが、犯人は恐らく目の前に居る昼行燈だ。

心の中でそんな事を考えている壁勇の横で、蓬同年が他に何か頼むことはないか伺いをたてていた。

「では悪いけれど、そこの花瓶の花と水を処分して来てもらえるかい」

「わかりました」

とっくに(しお)れてしまった花が入った、かなり大振りの景徳鎮(けいとくちん)の花瓶を、蓬同年が一気に持ち上げようとした。

「あ、それは重いから二人がかりでないと……」

恵秀が止めようとして近付いたが遅かった。

「あっ……!」

案の定よろけた彼が、恵秀に向って勢い良く花瓶の腐った水をぶちまけた。

「ああっ、す、すみません! ごめんなさいっ!」

すみません、すみません。 大丈夫ですか。

どちらが水を被ったのか分からない様な半泣きの顔で、蓬同年が恵秀に謝り続ける。

恵秀が彼をのんびりと(なだ)めた。

「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。 幸い今は夏だしね。 それより書類が無事で良かった」

「ぼ、僕、李御史の官服を洗って来ます!」

「有難う。 そうして貰えると助かるよ」

大丈夫。 いざという時の為に、予備の官服をちゃんと用意してあるからね。 笑顔でそう言いながら、恵秀が濡れた官服を彼等の目の前で脱いだ。

一瞬、御史部屋の中がしんと静まりかえった。

新米御史二人はその場で直立したまま、目を丸くして半裸になった恵秀の体を凝視している。

――――――――む……無茶苦茶かっこいい――――!

蓬同年が、小声で壁勇に囁いた。

「ねえ、龍同年ってもしかして、李御史の体に魅かれたとか……?」

壁勇が「ばか、聞こえるぞ!」と囁き返す。

二人がひそひそ話をしていると、濡れた服を丸めた恵秀が振り返った。

「……? じゃあ、頼まれてくれるかい?」

「はっ……はい!」

顔を赤らめてぼーっとしていた蓬同年が、彼の呼び掛けに我に帰ると、急いで服を受け取り部屋を出る。

だが、残った壁勇の視線は、未だに恵秀の上半身に釘付けになっていた。

明らかに官服で着やせしていた、歴代の武将の様な鍛え抜かれた体躯。

無駄の無い引き締まった筋肉は勿論、見惚れさせるに十分ではあるが、彼が一番驚いていたのは、その体に刻まれた数々の傷痕だった。

文官の中にも青慎や壁勇のように、武芸に優れた者は居る。

けれども、科挙試に合格する為には、自然と武芸を磨く時間は限られる筈なのだ。

若い文官、しかも状元合格者でこれ程までの肉体と歴戦の痕を持つ男など、他に居る訳がない。

(李御史って……何者なんだ?!)

『あんたは一体何者なの?!』

ふと急に、あの李武状元の言葉が頭に浮かんで来た。

李家の道場に、三男の李御史は一切通ったことが無いということも、噂で聞いている。

それでは彼は、一体どこであれだけ体を鍛えられたのだろう。

しかも彼の実の姉である筈の彼女は、彼が弟などでは無いと確信していた……。

気にならないと言えば嘘になる。 だが壁勇は、彼にわざと恵秀との会話を立ち聞きさせた瑠夏の思惑にも、しっかり気付いていた。

――――――あいつの思い通りに李御史の身辺を探ってやるなんて、冗談じゃない!

好奇心よりも、瑠夏に散々な目に遭わされた彼の意地が勝った。

蓬同年を待つ間、部屋で頼まれた雑用を二、三件済ませると、恵秀が壁勇に言った。

「御苦労だったね。 もう大丈夫だから、君は戻って構わないよ」

「はい。 それでは、お言葉に甘えて」

一礼して部屋から出た彼が暫く歩いていると、前方から蓬御史が急いで歩いて来た。

洗濯を済ませたらしい濡れた官服を抱えた彼が、自分の官服からも思い切り水を滴らせながら進んで来る。

「蓬同年。 俺がその官服を届けて来るから、君も早く着替えて来いよ」

あのまま御史部屋に入ったら、今度こそ大切な書類でも台無しにしかねない。

「有難う、助かるよ」

ほっとした表情で、彼が忙しなく自分の着替えを取りに去って行く。

濡れた官服を手に、壁勇が少し戸惑った。

(これも本当はちゃんと乾かして、糊づけでもしてから返した方がいいんだろうけどな……)

まあ、いつも(しわ)だらけの官服を平気で来ているあの李御史になら、大丈夫か。

またしてもそんな失礼なことを考えながら、壁勇が恵秀の御史部屋へと戻って来た。

「紅です! 李御史の官服をお持ちしました!」

扉の前で声を掛けるが、返事が無い。

(おかしいな。 確かに李御史はまだここに居る筈なんだが……)

もしかすると、あのまま昼寝でもしているのではないだろうか。

(李御史なら、十分有り得る……!)

あの人は時折、糸目を悪用して、仕事中に眠りこけているという噂もある位なのだ。

仕事はそつなくこなすが同僚との付き合いも悪いし、気配は薄いし掴みどころの無い性格と表情だし。 仕事中にしょっちゅう転んでは、わざとらしく珀同年にぶつかっているし。

他の御史達が留守の間に昼寝するくらい、平気でやりそうな人ではないか。

これから対面する相手について、胸中で無礼(ぶれい)千万(せんばん)の限りを尽くしながら、再び彼が声を掛ける。

「失礼します、李御史! 洗い終わった官服をお持ちしました!」

返事の代わりに、室内でバサリと大きな羽根のような音が響いた。

黒い影が、扉の隙間から見え隠れしている。

「李御史……?」

彼の他にも誰かが居るのだろうか。

部屋の中が心なしか、先程よりも随分と暗いような気がする。

何故だか急に悪感がして来たが、服を返さねばという義務感から彼は、再度声を上げた。

「李御史はいらっしゃいますか?! 御返事がありませんが、入らせて頂きますね!」

失礼します! そう大声で叫びながら、威勢良く御史部屋へと足を踏み入れた時。

彼の全身が、即座に凍り付いた。

彼の目の前に、この世の物ならぬ大きな黒い物体が、まるで彼のことを包み込もうとしているかの如くに、翼を広げている――――!

漆黒の中に光る双眸が、ゆっくりと彼の目に焦点を当てたような気がした。

「あ……あ……!」

(まさか、これは……)

――――あの、黒鳳凰なのか――――?!

けれども何故、黒鳳凰がこんな所に居るのだろう……?!

助けを求めようと部屋の中に素早く視線を巡らせたが、恵秀はどこにも居なかった。

今直ぐにでも逃げ出したいのに、足がすくんで動かない。

ふいにその生き物が、「クアー!」と嘶いたかと思うと、次の瞬間、それは背後の暗闇に溶け込むようにしてどこかへ消えて行った。

(た……助かった!)

平素は男らしい壁勇が、ぺたりとその場で腰を抜かす。

その後も暫くの間、彼は御史部屋にそのまま座り込んでいた。

彼の頭の中で、同じ疑問が幾度となく繰り返される。

――――――何故、あんな物が李御史の部屋に?

壁勇がこの時見た物は、彼の推測した通りに。

現在では黒耀帝と鳳翔太子のみが召喚出来るという、伝説の黒い鳳凰だった。


そしてこの日から壁勇は、ある仮定を密かに抱き始める――――。



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