黒華村の最期
白装束に身を包んだ壮年の幽霊が、誘うように春萌の姿を見詰めたかと思うと、音も無く正殿正面へと進んで行く。
この幽霊の姿を、彼の瞳が捕らえた刹那。
その場に凍り付いて動けなくなった春萌の口から、苦しげな喘ぎ声が絞り出された。
「……父……様!」
見間違える訳がない。 八年前に生き別れとなって以来、父の姿を思い浮かべない日など一日たりとも無かったのだ。
前方に静かに佇む幽霊は、紛れも無く御龍教天宮の大祝である、春萌の父だった。
(では、父様はもう生きてはいない……!)
彼の視野で天地がぐらりと揺れる。
懸命に目眩をこらえる彼を、地が引き摺り落とそうとしているかのようだ。
たちまち滲んで行く視界の中心で、父が正殿の前でぴたりと止まると、再び春萌に向き直って彼を見詰めた。
生前に幾度となく目にした、穏やかで優しい瞳で。
父が、地面を指差したまま彼に何かを訴えている。
「父様!」
春萌は、まるで父の姿を追い求めるように手を伸ばしながら、正殿へと駆け寄って行った。
そして彼の手が、あと少しで父に届きそうになるまで近寄った時。
急に鼻につき出した猛烈な腐臭と入れ替わりに、父の姿が消えた。
「父様……うっ……」
(何だろう、この臭いは……?!)
足元を見下ろすと、正殿正面の地面の色が、明らかに周囲と違うことに気が付いた。
同じ土の色が、丁度正門付近の人面樹の辺りまで続いている。
掘り起こしたようにも見える土自体も、心なしか柔らかく思えて、彼は屈んで地面をよく眺めてみた。
顔が地面に近付くにつれて、腐臭が益々強くなる。
ふと、境内が水を打ったように静かになり、彼の周りの景色が、暗い帳に覆われた。
瞬く間に本宮の境内から、麗宝達の姿がきれいに消えて行く。
直後に彼は、無人となった境内の正殿の前で、独り佇んでいた。
しかし、その静寂も長くは続かなかった。
一体いつの間に現れたのか。
彼の眼前には二百人以上は居るであろう村人らしき者達が、周囲の何かに怯えているような様子で、一心に誰かに向って懇願していた。
晩夏の日差しが透過する彼等の背後に、影は見られない。
黒華族らしき逞しい年長の男が、声を荒らげた。
「神長官様、わしらが何をしたと言うのですか! 『御印』や奇形が出るにも係わらず、これまで村で長年に渡って凱帝国の金貨を鋳直して来たのは、黄家の命令だったからではないですか!」
彼等が話をしている相手は、春萌には見えないし、声も聞こえない。 ただ既にこの世の者ではない村人達の姿と話声だけが、彼の耳目に届いて来るだけだ。
再び男が叫んだ。
「わしらは龍鳳の戦い以来、神山で黒華村を匿って下さった黄家と御龍教には感謝しとります。 だからこそ、御龍祭の度に贄も捧げて来たし、神山と凱帝国の間の地下通路を掘るのにも協力して来た。 この国を白華族から黒華族に取り戻す為だと言うから、凱帝国からの武器の調達にも力を貸して来た。 けれどもそれは、わしらがいつかここから外に出て自由になる為であって、最後にこんな風に千年祭の生贄として、殺される為なんかじゃないんだ!」
村人達の中から、すすり泣きが聞こえて来る。
子供達の一人が、周囲の何かに怯えながら、母親らしき女性に訊いた。
「この人達みんな、凱帝国の兵士なの?」
母親が、是と言う代わりにぎゅっと我が子を抱き締める。
どうやら彼等は皆ここで、隣国の兵士達に囲まれているらしい。
(千年祭の生贄っていうことは、まさか……!)
あの御龍祭の贄として捧げられた野性動物達のように、彼等は惨たらしい最期を迎えたのであろうか。
(本宮の異様な瘴気は、そのせいだったのかも知れない……!)
激昂した男たちの口論と、益々大きくなる女子供のすすり泣きが尚も続いている。
春萌は、この後にやって来る彼等の命運を悼んで瞑目した。
彼等は既にこの世には存在しない。
つまり、今目の前に居る黒華村の村人達は全員、ここで兵士達に黒龍への贄として屠られたのだ。
ならば彼等の亡骸は、その後どこへ行ったのだろうか。
春萌は足下の柔らかな地面に、ゆっくりと視線を戻した。
人面樹が生えるほどの穢れと、益々耐えがたくなって来た腐臭。
恐らく間違いはない。 彼等の骸は黒龍に更なる穢れを与える為に、本殿の周囲に晒された後、ここに埋められたのだろう。
「神長官様!」
絶望をそのまま声に変えたような、一際大きく叫ばれた一言を皮切りに、村人達の悲鳴と絶叫が境内に響き渡る。
目を覆いたくなるような、生き地獄そのものの惨状から目を背けることも出来ずに、春萌はただその場に立ち尽くしたまま、彼等の凄惨な死に様を見届けていた。
「……齋同年。 齋同年! 大丈夫ですの?!」
春萌が青白い幽鬼の如き面を上げると、麗宝達が心配そうな表情で彼の顔を覗き込んでいた。
「どうしたんですの? 急に走り出したかと思ったら、動かなくなるんですもの」
びっくりしましたわ、と言う麗宝達の言葉に生半可な返事を返しながら、彼は懸命に頭を冷やそうと足掻いていた。
目を閉じなくとも、頭の中で生贄の光景が繰り返し再現されて行く。
(父様はきっと、あれを僕に知って欲しかったんだ……!)
父の最期はどうだったのだろうか。 そんな雑念を振り切るかのように、彼は懸命に官吏としての役目を果たそうと思考を巡らせた。
彼等が殺されたのは、千年祭の為だと男は言っていた。 つまり、贄にされたのは、つい最近のことだ。
ならば、凱帝国の兵士達は、今も神山のどこかに潜んでいる可能性がある。
神山には凱帝国への地下通路がある、とも彼は言っていた。
神長官は黄家の縁戚だ。あの獄吏様がそれを知っていたのならば、当然黄家もクロだろう。
だが、二百人は超えていたであろう黒華村の村民達を殺すには、相当数の凱帝国の兵士を動員していた筈だ。
果たして黄家に、それ程の力があるものだろうか。
寧ろ凱帝国の方が、黄家を利用していたと考える方が自然ではないのか……。
そこまで考えた時。 刑部侍郎の天籟が、大きなウサギの顔を傾げながら、春萌に話しかけた。
「君、齋家の息子だよね。 今の、見えたんだろ?」
春萌が、途惑いながらも首肯する。
「本当にひでえよな。 金貨鋳造の罪をなすり付けた上に、口封じも兼ねて皆殺しにするなんて」
どうやら天籟にも、黒華村の霊達の会話が聞こえていたらしい。
彼等の最期を見ていたのは自分だけではなかった、という奇妙な安心感と、やはりあの光景は夢ではなかったのだという失望が、同時に春萌に押し寄せて来る。
けれども、そんな彼の複雑な心情も、天籟の深刻な声音に気付くと、胸の奥深くへと引いて行った。
「見えたんだったら話は早いな。 千年祭はまだ終わってないんだぜ。 急いで何とかしないと」
「え……?」
未だ現に戻り切って居ない様子の春萌が、紫ウサギ侍郎をきょとんと見上げる。
天籟が、苦笑しながら黒華祭りの物見客達を指差した。
「多分、彼等が次の生贄だから。 勿論、俺達も含めてね」




