黒華村祭り3
背景を深緑と茶褐色に塗り潰されたような神山の、針葉樹林の合間から、どこからともなくそれは現れた。
無愛想にも思える山の景色が、まるでお花畑が降りて来たような華やいだ風景へと急激に変貌して行く。
優美に宙を舞いながら、見る間に周囲を埋め尽くして行く無数の蝶の出現に、子供達から歓喜の声が上がった。
「うわあ、きれいっ!」
陽光を反射し、光輝く玻璃のような透明の羽根を持つ、幻想的な蝶の群れ。
羽根の縁取りは胴体と同じく輝く銀色で、美しい彩りを帯びた羽根を時折ひらめかせる彼等の姿は、各々がまるで精緻な芸術品のようだと評しても過言では無い。
蝶の数は次第に膨れ上がり、二千は超えているであろう黒華村祭りの物見客達のほとんどに舞い降りていた。
これほど大きな蝶の群れならば恐怖を抱きそうなものだが、あまりに見事な美麗さ故に、誰もがうっとりとその姿に酔いしれていた。
蝶達にも人間を恐れる様子は全く見られず、数匹の蝶に留まられた子供達からは、無邪気な笑い声すら聞こえて来る。
何か恐ろしげな化け物でも現れるのかと身構えていた鳳翔達も、拍子抜けした様子で華麗な蝶の群舞を眺めていた。
「きれい……これまで見たことも無い蝶ですわ。 羽根が透き通った蝶だなんて」
麗宝が自分の腕に止まった瑠璃色の蝶を、そっと光にかざして眺めていると、史明が警告した。
「それは幻蝶だ。 触れるでない」
「幻蝶?」
麗宝の上で羽根を休めている蝶に史明が触れると、蝶は跡形も無くどこかへ消えた。
「この術は以前目にしたことがある」
(確かこれは旺李達の……)
珍しく表情を硬くしている史明とは対照的に、周囲は完全にお祭り騒ぎ一色だ。
「素敵! これって黒華祭りの催し物の一つなのかしら?」
そんな声が、周りのあちこちから聞こえてくる。
普段は警戒心の強い瑠夏でさえも、あまりに美しい蝶達の舞に眦が緩みがちだ。
例外は無粋にも「この蝶を黄華州の特産物として販売すれば……」などと真剣に皮算用していた鳳翔くらいのものか。
そうして誰もがこの世の幸福や極楽を体現したような美しい光景にすっかり魅入られ、我を忘れて浮かれ騒いでいた頃。
まるで最大限の効果を発揮するべく考え抜かれたような、絶妙のタイミングで。
優雅な蝶達の群れが、一斉に黒く毒々しい蛾へと姿を変えた。
どす黒い羽根に、まるで目玉のように見える朱色と茶色の羽紋が付いた禍々しい蛾の大群が、べったりと皆の体に張り付いたままこちらを見ている――――。
「きゃあああああ――っ!」
「いや―っ!」
「うわあああっ!」
「助けて!」
つい今しがたまでお祭り騒ぎの絶頂にあった神山の入り口は、一転して阿鼻叫喚の坩堝へと化した。
虫が苦手な麗宝も、真っ先に悲鳴を上げて史明にしがみつく。
鳳翔が不快そうに眉根を寄せて、史明に訊いた。
「おい、龍榜眼! これは一体何だ?!」
「幻術だ。 慌てるでない。 動揺すれば術者の思う壺ゆえ」
だが実際には、目の前で既にパニックに陥っている群衆を鎮める間さえ与えられないまま。
彼等の精神の空白を待ち受けていたかの如くに、次の攻撃はやって来た。
((リィィィン、リィィィン、…………))
山全体に沁み渡って行くような玲瓏たる鐘の音が、悲鳴で騒然となっている筈の群衆の耳に、何故だかはっきりと響き渡って行く。
(鐘の音……? 一体どこから……)
麗宝達が周囲を見回したが、音源はどこにも見当たらない。
そして、まるでその鐘の音が合図であったかのように。
二千人の物見客は、無言のまま地べたへと崩れ落ちて行った。
夢の中で麗宝は、累々と横たわる屍の中を亡者のように彷徨っていた。
彼女の沓には誰のものとも判らない血が大量にこびり付き、全身が錨のように重くてだるい。
帷子を身にまとった亡骸の顔を一人、また一人と確認しながら、彼女は愛しい彼の姿を求めて狂ったように歩き続けている。
彼女の護衛を任されていた禁軍の兵が、見かねて声を掛けて来た。
「皇后様、戦場跡は皇后様が行啓なさるような場所ではございません。 どうかもうお戻りになられますようお願い申し上げます」
普段の彼女ならば、配下の者を困らせるような行動は慎んだことだろう。
だが今の彼女にはどうしても、夫である白華帝が黒鳳凰と化して、自国の兵士達を殺戮した後に何処へと消えてしまったという証言を、受け容れることが出来ないでいた。
「もう少し探してみたいの」
素気無くそう応えると、困惑顔の護衛達を残したまま、再び彼女は無数のむごたらしい骸達へと向き直った。
(あの人は……天狼はもう二度と私の元へは帰って来ないかも知れない……!)
黒華国へ潜入させていた密偵の情報によると、黒鳳凰から人へと姿が戻った時、白華帝は自らその命を断とうとしたという。
彼女と出遭う前には名前そのものの、まるで群れから外れた、天に唯一匹在る狼のような存在であった彼。
その彼はやがて自分の居場所を軍に見つけ、周囲に支えられて百華帝となり、己の兵達をまるで家族のように大事に慈しみ育てて来た。
名誉を重んじる百華国にあって、その兵達を手に掛けてしまった彼が、己だけおめおめと生き長らえようと足掻くなどとは、とても思えない。
一体何が彼を思いとどまらせたのか。 それを考える度に彼女の心が悲痛な叫び声を上げる。
恐らく黒華国は、彼を脅しつけたのだろう。
彼の唯一最大の弱点だと知られている、彼女自身を人質にとって。
黒鳳凰の化身であると知られている限り、皇帝ですらあった彼が平時にこの国へ戻って来ることは二度と無い。
それに、彼は永遠に年をとらなくなってしまったのだ。 徒人の彼女には、彼と伴に老いて死ぬことも、彼を殺して永久に続く責苦から解放してやることも不可能だ。
ならばいっそのこと、兵士達の目撃したのは白華帝本人ではなく、不運な替え玉兵士の一人であって欲しい。
身勝手にも心からそう願いながら、彼女はまた足元の兵士の亡き柄の上にかがみ込んだ。
白華帝に良く似た立派な体躯の兵士の背中には、黒鳳凰の爪痕らしき深い裂傷が刻まれている。うつ伏せになり隠されたその死に顔を、そっと両手で持ち上げ確認すると、再び他の屍へと虚ろな視線を彷徨わせた。
この兵士達の貴い命を、自らの手で奪ってしまったと知った夫の心情を慮ると、我慢し続けて来た涙が急に溢れ出そうになる。
まるで終わらない悪夢が続いているような錯覚を覚えるが、これは全て現実だ。
苦しくて、苦しくて、ただこのまま生きていることすら耐えがたいというのに、龍家では白華帝の『裳』も明けぬ内から既に、今後の彼女の再婚先まで決めてしまった。
(…………天狼!)
((宝珠))
耳に快い低音の、彼の甘い囁きを思い出して、堪え切れなくなった涙が一筋頬を伝う。
夫である白華帝以外に、彼女をそう呼ぶ者はもはや居ない。他の誰にもこの名を呼ばせたくなどない。
だが今や龍家の存続は、彼女の再婚にかかっていると言っても過言では無かった。
龍家の命運を握る以上、自ら命を絶つことすらも、彼女には許されていない。
(お願い。 誰か、今直ぐ私を殺して……!)




