月華の血脈
蓮の花が咲き乱れた、湖かと見まごう広い池の亭で、夜空の星が織り込まれたかのような銀の襦裙を纏った凄艶な美女が、手鏡に映し出された下界の光景を眺めていた。
一点の曇りも無い最上級の水晶で造られた亭には、至る所に龍や鳳凰等の神獣、それに牡丹や蓮華等の彫刻が施されている。彼女が腰掛けている豪奢な玉座は銀で縁取られた翡翠で造られており、堂々たる麒麟の透かし彫りが、絢爛豪華な雰囲気を醸し出していた。
天宮から程良く離れたこの神泉苑で、人目を避けるように神鏡を覗き込んでいるのは、亭の豪華さすらも霞ませる天界の主。
天界史上三人目の、女性の玉皇大帝である。
漆黒の髪と、白梅のように繊細で清らかな肌とはうらはらに、真紅の薔薇が誰よりも似合う彼女が、金銀宝珠ですら色あせてしまうほどの華やかな笑みを浮かべながら、傍らに控えた宰相を労った。
「白寿仙はどうやら、龍の娘に無事、神具を渡せたようじゃの。 そなたも御苦労であった」
三千歳は軽く超えている筈だが、二十代前半位にしか見えない美しい玉皇大帝に、同じく若づくりの、天地開闢より続く権門の出である大傅が、形ばかりの苦言を呈する。
「本来、天界が人界でのもめ事に介入することは禁じられておりますのに、他でも無い貴女様がそれをお破りになられるとは。いやはや……」
「白々しい、今更何を言うか。 妾に手を貸し、下界で白寿仙に頼みごとをして来たそなたとて、同罪であろうが」
金色の瞳に同色の髪という、天帝の重鎮にしてはいささか華やか過ぎる容姿の彼が、いかにも心外だという表情で反駁した。
「おや、何をおっしゃいます。 放っておいたら、貴女がご自分でまた白寿仙に化けて、下界へ忍んで行かれるではありませんか! 月華殿がおられた頃は、一体何度お二人で出掛けられて、白寿仙にご迷惑をお掛けしたことか。 大体、この『白寿仙』などという変な二つ名も、貴女様が勝手に広めたのでしょう?」
白寿仙殿には全く迷惑極まりない、などと言うその本人が、実はとっくの昔に彼の本名を忘れている事実は、すっかり棚に上げている様子だ。
「仕方があるまい。 どうしてもあやつの名を思い出せなかったのじゃ。 それに、いかにもじじいといった風貌なのだから、ピッタリであろう?」
「白寿仙殿に、貴女様の正体を知られていないことだけが、唯一の救いですかね」
「さて、それはどうかの。 何れにしろ、あの神具は元々月華の物じゃ。 彼女が望んだ者に渡したところで、文句を言われる筋合いは無い」
銀色に光る彼女の瞳を、伏せ気味になった長い睫毛が遮る。
「他でも無い月華の頼みだしの……」
美しくて不器用な白銀の龍を想い出しながら、彼女の視界が微かに滲む。
「月華は本当に不器用なやつじゃった……あんな白龍の王子――旺諒などに誑かされよって。 妾があれほど反対したというのに……」
月華は旺劉がまだ皇太子であった頃に、旺劉の弟王子であった旺諒と恋に落ちた。
それまで数々の浮き名を流し、敵も多かった旺諒は、月華の身を案じて二人の恋を秘密にしていたのだが、仲が良かった旺劉にだけは打ち明けて、橋渡しを頼んでいたらしい。
龍宮を避けて人界で逢瀬を重ねていた二人は、皇太子である旺劉が結婚したら、直ぐにでも正式な婚姻をと約束していたのだが……。
ある日のこと。 旺諒が突然、人界で姿を消した。
お忍びで人界へ行っていた旺諒の体面を案じ、表向きは病床につき療養していることにされてはいたものの、旺劉達の必死の捜索が続く中、旺諒の足跡は一向に掴めないままだった。
元々儚げで、あまり体が丈夫ではない月華であったが、幾年もの間人界へと降りて旺諒を探し続けて行くうちに、どんどん彼女の命が削られて行くのが手にとるように分かって、天帝は何度も彼女に旺諒捜索を止めるように厳しく命じた。
だが月華はいつも、悲しげに同じ言葉を繰り返した。
「どうかお慈悲を。 あの方が居なければ私の命など、既に無いも同然なのです」
月華に破れない天界の結界は存在しない。
自在に姿を変える彼女を閉じ込めて置くことなど、誰にも出来る訳が無かった。
そして月日は流れ、旺劉が即位し、龍界から旺諒の存在が次第に忘れ去られて行った頃。
突然、龍界に旺諒が姿を現した。
けれども、あの輝かしい純白の龍では無く、どす黒い瘴気を撒き散らす呪われた黒龍として。
龍界に突如として出現した謎の黒龍が、行方不明の旺諒だという事実は、黒龍に直接対峙していた旺劉と月華、それに天界の一部の者にしか知られてはいない。
黒龍が他でも無い旺諒だと真っ先に気付いたのは、僅かながらも残された本来の彼の気を、敏感に察知した月華であった。
月華は最後まで、旺諒を救い、彼を正気に戻そうと必死に努力していた。
月華自身が黒龍を清めることはあっても、黒龍の瘴気で月華を倒すことは出来ない。
だが、月華は致命的に戦闘には向いてはいなかった。
全身を旺諒の鋭い爪でずたずたに引き裂かれている彼女を救おうとした旺劉が、代わりにその爪の攻撃を受けると、龍の中でも一際瘴気に弱い白龍の彼は、見る間に旺諒の毒気に当てられ弱って行った。
龍界で月華は、白龍帝と共に黒龍を倒したとされる英雄だ。
けれども、彼女は決して黒龍を倒したくなどは無かったのだ。
万物を浄化する彼女の爪は、黒龍にとって何よりの毒となる。
旺劉の命を救う為に、とうとう愛する旺諒を手に掛けてしまった彼女の心中を思いやると、只でさえ彼女を死に追いやった旺諒に対する恨みが沸々と再燃して来る。
「『必ず月華を幸せにします』だと?! よくも抜け抜けと、大根のように白々しい嘘を言えたものじゃ! 大体あやつは月華との仲を公表すらせず、こそこそと付き合っていた根性無しじゃ! 大根どころか、カイワレのような弱っちい性根で、身の程知らずにも妾の大切な月華を攫おうなどとするから、こんな結果になったのじゃ! あの、根性無しのカイワレ王子が!」
『月華の為ならば、運命すらも変えてみせる』
自信満々にそう宣言したあの男の面の皮を、今からでも出来るならば剥いでやりたいくらいだ。
こんな結末が待っているのならば、例え嫌われようとも月華と旺諒の仲を許すのではなかった。
どんなに嘆いてみても、あの不器用で優しい白銀の龍はもう、帰ってはこないのだから。
そんな玉皇の心中や悪口雑言など、毛ほども気付かない振りをした大傅が、淡々と訊ねる。
「ところで月華殿の御子は、いつ天界へ呼ばれるおつもりなのですか?」
「……今は時期尚早じゃ。 妾が呼んだとしても、恐らく本人が拒否するであろうしな」
「そうですか。 月下殿に似て、さぞかし美しい銀白色の龍なのでしょうなあ」
天界の神人達をも虜にした、銀色の佳人を思い浮かべながら、夢見るように大傅が溜息を吐く。
だが玉皇は、彼の独り言を耳にすると、苦々しくも憐憫の情を込めた口調で呟いた。
「今はまだ、成龍にすらなっておらぬ、醜い灰白色の龍の子だがの……」




