南陽12
「お嬢さん! 待ちなされ、龍のお嬢さんや!」
呼ばれるままに振り向くと、広場の木陰で座禅を組んだまま宙に浮いている、白髪白髭の老人が、彼女に手招きをしている。
(『龍のお嬢さん』……? 確かに私は龍家の娘だけれど……?)
妙な呼び方をして来る見知らぬ老人を訝しく思いながらも、麗宝は素直に彼に近付くと訊ねた。
「私に何かご用ですの?」
「うむ。 やっぱり、あんたじゃな!」
何が『やっぱり』なのかさっぱり分からない彼女を眺めながら、彼が満足げに頷く。
「最初は昨日通りかかった美女がそうだと思ったんじゃが、どうやらあれは男だったようでな」
麗宝の頭の中に一瞬、史明の姿が浮かんで消えたが、二人は双子といっても全然似ていないので、気のせいだろう。
あんたで間違いないじゃろう、と言う老人に向って、後からついて来た蓮青が、感嘆の声を上げた。
「すげーなー、このじーちゃん! 一体どういう仕掛けで宙に浮いてるわけ?!」
「仕掛けでしたら恐らく、あちらの杖から背中にかけて……」
「うおおおっほん!」
老人がふんぞり返ったまま大きく咳払いをして、麗宝の解説を遮った。
「説明はせんでも結構じゃ! それよりお前さん、最近夢に、銀髪の美女が現れなかったかね?」
「銀髪の美女、ですの? あ……!」
彼女の脳裏にすぐさま、悲しげな銀灰色の双眸を向けた、白い衣装の佳人の姿が浮かぶ。
「あの方のことかしら……? 長い銀髪に銀灰色の瞳の……」
「そうじゃ、間違いなく月華じゃ!」
麗宝の傍らで、なぜか蓮青が目を丸くした。
「あの方、月華さんとおっしゃるの?」
「うむ。 わしの長年の友人じゃったが……」
過去形の物言いに麗宝が首を傾げるが、彼は続ける。
「彼女が先日、夢枕に立ってな。 近い内に『龍の娘』が南陽に来るから、これを渡して欲しいと頼まれたのじゃ」
老人が、丁度手の平に納まる大きさの、銀色の鐘を彼女に渡した。
麗宝が鐘を鳴らしてみようとして振ったが、音がしない。
逆さにして内側を見てみると、何と打点の舌の部分が無いではないか。これでは音など出せる筈もなかった。
「……壊れた鐘ですのね。 でも、どうして月華さんは私にこれを? 私、一度もお会いしたことはありませんのよ?」
「……さあな。 じゃが月華はお前さんに、『山で皆の目を覚ましたい時』に使うようにと言っておったぞ」
これから麗宝が向う山といえば、間違いなく御龍神山のことだろう。
それにしても。
(音が出ない鐘で、どうやって目を覚まさせるのかしら……?)
疑問に思いつつも、有り難く鐘を受けとった麗宝は、大事にそれを布袋にしまうと礼を述べた。
「有難うございます。 月華さんにもどうぞ、宜しくお伝え下さいね」
老人は、白髭に覆われた口元を緩めて笑うと。
「さあ、用が済んだら早く行きなされ。 長居は無用じゃ」
そう言って、再び瞑想のポーズに戻り、目を閉じた。
「有難うございました。 行きましょう、蓮青さん」
再び歩き出した麗宝が、彼に言う。
「そういえば鳳翔殿下から、南陽には白寿仙と呼ばれる白髪白髭の仙人がおられるとお聞きしましたけれど……いかにもそんな風体のご老人でしたわよね?」
「……そーだな」
「宙に浮いているところを見た時には、一瞬本物の仙人だと思ってしまいましたもの。 ところで、あの仕掛けですけれど……」
話しながら、今一度その姿を見ようと振り返った麗宝が、急にその場で立ち止まった。
「どーしたの、 麗宝ちゃん?」
「あのご老人、どちらへ行かれたのかしら……? つい今しがたまで、広場にいらっしゃった筈ですのに……」
「……さあな。用事が済んで、仙界にでも帰ったんじゃねーの?」
蓮青が、冗談とも本気ともつかない声音で返す。
そろそろ人出も少なくなる夕餉の時間で、大分見晴らしが良くなっている筈の広場には、あの目立つ白い衣の老人の姿は、どこにも見られなかった。




