南陽8
南陽酒家の瀟洒な寝室が、水を打ったように静まり返った。
これまで史明が、麗宝と春蘭以外の者にこき使われたことなど、まずない。
麗宝は確かに彼の弱点の一つだ。それは誰もが知っている。
だがこれまで、彼に弱みを握られても、握り返して彼を脅してやろうなどという者は決して現れなかった。
誰だって百倍返しは怖いのだから。
過去に史明を陥れようとした者達は、ことごとく再起不能になったという。
鳳翔が皇太子だからといって、史明が手心を加えるなどとはとても考えられない。
けれども、そんなことは百も承知で、鳳翔は麗宝を人質にとった。
さぞかし史明の怒りを買うことだろうと想像し、青慎達はひやひやしながら二人を見守っていたのだが……。
しばしの沈黙の後、史明があっさり応えた。
「……分かった。それで、我は何をすればよいのか」
皆が驚いて史明を凝視するその傍で、鳳翔までもが一瞬耳を疑って静止した。
「何を固まっておる。 人手が足りないのであろう?」
元々南陽には、春蘭の意向を汲んで、麗宝の手助けをする為にやって来た史明である。
そんな事情など皆目知らない鳳翔は、心の中で勝利のガッツポーズをとっていた。
(やった! ようやく龍史明を引き摺り出せたぞ!)
皇太子が、つい緩んで来る頬を引き締めながら、彼にこの度の事情を大まかに説明する。
だが、次第に史明の顔に影が差して来るのに、勝利に酔いしれている鳳翔は全く気付いていなかった。
「黒龍…………?」
「ああ。齋御史の話では、御龍教の祭神は白龍なのに、実際に本殿で目撃した物は、黒っぽい龍のような生き物だったそうだ」
あの日、本殿の中を覗いた春萌の心臓は、不自然に大きく脈打った後に動きを止めた。
彼がその場で倒れた時、音に気付いた父が直後に駆け寄っていなかったら、今頃こうしてここに居ることはなかっただろう。
それが精神的なショックによるものか、それとも黒龍の瘴気に当てられたからなのかは、本人にも判らないという。
嫌な予感が足元から、史明の心臓を侵食するように上って来る。
当時、人界へ降りて行った白い龍といえば…………。
史明が愁眉を浮かべたその時。
突然、衝立の後ろから、緊張感の無い男の声が聞こえて来た。
「あの~、おとりこみの最中悪いんだけど、俺もう帰ってもいい?」
ひょいと顔を出した蓮青が、人懐っこくにかりと笑う。
史明以外の一同が、ぎょっとして彼を見た。
(今まで全く気配を感じていなかったなんて……!)
軽い衝撃を受けて、戸惑った青慎がその場に立ち尽くす。
だが、瞬時に反応した瑠夏は、既に彼に攻撃を仕掛けていた。
「くせ者!」
「うわっ、ちょっ……たんま! 止めて!」
蓮青が、器用に彼女の攻撃を避けながら懇願する。
始めの内はまだ余裕を残していた彼の声音が、間も無く悲鳴じみた叫びへと変わって行った。
「アンタ、さっきから俺のどこを狙い打ちしてるわけ?!」
おムコに行けなくなるから止めてほしーんだけど、などと言いながらも、官吏達の間で密かに『宦官製造機』と呼ばれている彼女の攻撃を、一度も喰らわずに避けているなど、只者ではない。
完全に蓮青を危険人物とみなした瑠夏が、攻撃の手をますます強めてゆく。
「うわっ、まだやる気満々?!」
逃げ回る蓮青の首に掛けられていたチョーカーが、瑠夏の攻撃でぶつりと切れた。
何気なしにそれに目をやった瑠夏の動きが、ぴたりと止まる。
目の前の床に落ちているチョーカーを拾い上げた彼女が、食い入るようにそれを見詰めた。
攻撃が止んで、大袈裟に安堵の息をついている蓮青に、彼女が詰問する。
「この首飾り、どこで手に入れたの?」
へらへらしながらも、油断の無い目つきで蓮青が答えた。
「昔、知り合いから貰ったんだよね。 大事な物だから、返してくんない?」
「……随分前に、これと同じ首飾りをしている人に会ったわ」
「へえ……同じ物くらい、他にも勿論あんだろーね」
「でも、あれ以来、この首飾りをしている人には、今日まで誰にも会わなかった……」
蓮青が、今更ながら彼女をじっと見た。
彼女から、ほんの僅かにだが龍の血を感じる。
(まさか…………?)
「もういーだろ。 いい加減に返してくんない?」
「………………」
瑠夏が無言のまま、首飾りを彼に差し出した。
それを用心深く受けとった蓮青が、彼女に訊ねる。
「アンタ、その持ち主の知り合い?」
「そうね。一度会ったきりだけれど」
瑠夏の様子からすると、特にその持ち主に好意を抱いているわけでもなさそうだ。
「ふうん。それで、もしアンタがもう一度その人に会ったら、どーするつもりなわけ?」
「さあ……どうするのかしらね」
自分でも分からないとでもいうような、複雑な表情をして瑠夏が答えた。
二人の様子を見守りながら、とりあえずの危険は無さそうだと判断した鳳翔が、蓮青を指すと史明に聞いた。
「こいつは、お前の客人か」
「我をお前扱いする者に答える義理は無い」
「お前、一体どれだけ偉そうなんだ?! 龍榜眼! こいつは龍榜眼の客人かと聞いている!」
「さあのう。我が留守の間に寝室に忍び込む者でも、知り合いならば一応我の客人なのかのう」
これを聞いた瑠夏が、今度は短刀を鞘から抜いた。
「ちょっ、珀輝! 勝手に入って待ってたことは謝るから!」
「珀輝? 誰だそれは」
鳳翔が眉をひそめると、史明が蓮青に言った。
「我は史明だ。 珀輝はもうおらぬ」
「……? まあいい。 龍榜眼がこの男の知り合いならば、丁度いい。 立ち聞きしたならば、こちらの事情も既に分かっていることだろう」
「あっ、そのことなら心配しなくていーよ。 俺、誰にも言わないから」
「そうして欲しい。 それから、俺達は明日御龍神山に行く為に腕の立つ者を探している。 どうだ、暫くの間俺に雇われてみる気はないか?」




