南陽7
「ふむ。なるほどのう。実に面白い形をした椅子であるな」
「え?」
「椅子、ですって? どこに?」
史明が無言のまま、すたすたと老人の所に歩いて行くと、彼の白い衣の裾をつまんで、ひょいとめくり上げた。
「あっ! こら、何をするか!」
衣の中を覗き込んでいる史明をどけようと、じたばた暴れている老人を、史明が軽々と持ち上げる。
老人が浮いていた場所に現れたのは、地面に深く突き刺さった彼の杖と、その頂上付近から彼の背後へと横に延び、更に背中の中心辺りで直角に曲って腰の下まで届いている細くて厚い木板。そしてその端にしっかりと固定された、椅子代わりと思われる厚い木の板だった。
「あーっ!」
「なるほどな……」
「驚いたわね。 こんな形の椅子だったなんて」
木のフレームは彼のゆったりした行者服に見事に隠されており、背後から見ても全く分からない。
これならば、バランスさえ崩さなければ、ずっと宙に浮いたような姿勢で座っていられる。
服でもめくらない限りは、まず見破られないだろう。
衆目を集めてしまった老人が、「ええい、離せ! 離すのじゃ!」とジタバタ暴れている。
史明が椅子の上に降ろしてやると、彼はまたふんぞり返って瞑想のポーズに戻った。
その様をじっと見ていた史明が、彼に言う。
「そなた、何もいかさまなどせずとも……」
「これが一番楽なのじゃ!」
開き直った老人に呆れた鳳翔が、皆に声を掛けた。
「一瞬俺まで本気で白寿仙かと思ったが、やはり気のせいだったようだな。 行くぞ!」
籠に小銭を投げ入れて立ち去ろうとする鳳翔に、老人が訊ねた。
「お前さん達、白寿仙に何の用じゃ?」
「白寿仙を知っているのか?」
「いや、そんな妙な名前の仙人など知らんわい」
「そうか。大した用では無い。邪魔したな」
「おお、邪魔じゃ邪魔じゃ。はよう行かんかい!」
「………………」
(俺は今、李洵だ。俺は今、李洵……)
泣く子も黙る百華国の皇太子が、再び心の中で例の呪文を唱える。
麗宝を抱いた青慎達が彼の後に続いた。
そして最後に史明が通り過ぎようとした時。
老人が彼を見ながら、何かを言いかけた。
「お前さんは……」
けれども史明は、金貨を一枚そっと彼の籠に入れただけで、振り返りもせずにその場を去って行った。
史明が泊まっている、南陽酒家の中でも最上級の客室に一歩足を踏み入れた時。
清貧皇太子・鳳翔は、即座にきっぱりと宣言した。
「折角の申し出だが、やはりここでの宿泊は断る」
ここに一泊するだけで、どれだけ国庫から金が消えるのか。
考えることすら恐ろしい、と正直にその顔に書かれている。
鳳翔の反応は予想していたのか、驚いた様子も無く史明が応えた。
「断るのはかまわぬが、麗宝はここに置いて行ってもらおう」
皇太子の懐具合を知った上での提案だったと、今更気付いた鳳翔が、いまいましげに彼を睨んだ。
「こいつの容態を案じて、今は置いて行くが、こいつは俺の麾下にある。 後で迎えに来るからな」
「だがそなたは、彼女を黄華州へ連れて行くべきかどうか、迷っていたのであろう?」
一瞬、鳳翔は、史明が人の心まで読めるのかと思った。
返す言葉も無い彼に、史明が続ける。
「麗宝の頭脳は頼りになるが、万が一禁足地で戦闘にでもなれば、彼女は戦力外だ。足手まといになるのは明らかだからのう」
傍らで青慎が、天蓋付きの柔らかな寝床にそっと麗宝を降ろす。
皆が黙ったまま、史明の言葉に耳を傾けていた。
鳳翔には何も言わないが、誰もが史明の意見に賛成だった。
鳳翔も彼等の無言の圧力は、しっかり肌で感じとっている。
大きく溜息を吐くと、しばしの間を置いた後に皇太子が言った。
「こいつを置いていってもいいが、一つ条件がある」
「何か」
「今の俺達には、致命的に人手が足りない。 代わりにお前が一緒に来るというのならば、こいつはこのまま返してやろう」




