南陽6
「麗宝……麗宝!」
青慎の腕の中で、ぐったりしたまま動かない彼女に、彼は何度も呼びかけた。
あまりの反応の無さに背筋がひやりとするが、息があるのを確かめると、ひとまず安堵する。
頭をなるべく動かさないようにしながら、そうっと彼女を抱き上げると、ほのかに甘い花の香りがした。
久し振りに見る麗宝の寝顔をしばし眺めた後、大人しく彼の腕の中で眠る彼女の姿を感慨深げに見つめながら、静かに船を降りて行った青慎だったが……。
前方から視線を感じて、ふと顔を上げてみると、いつの間にかとっくに下船していた鳳翔達、それに船頭や人速達までもが、妙に生温かい眼差しで二人の様子を見守っていた。
「いや~、若いっていいねえ」
「『今までも、これからも、君だけをずっと愛している』、かあ。こんな色男に言われた日にゃあ、そりゃあ気も失うわな!」
気のいい船頭達の笑い声に、それまで周囲のことなど目に入っていなかった青慎の頬が、急激に赤く染まって行く。
麗宝の容態を心配していた瑠夏も、彼女が今はただ眠っているだけだと分かると、「後でじっくり話を聞かせてもらうわね」と妙に迫力のある声音で言い残しただけで、彼の男としての生命線は無事だった。
(麗宝を降ろした後が怖いな……)などと考えていると、鳳翔が皆に言った。
「念の為、先にこいつを医者に連れて行こう。宿の確保はその後だ。出来れば全員一緒に泊まれる宿があるといいんだが……いずれにしても、先ずは街の中心街に行かないとな」
河辺にも宿はあるが、このすぐ近くに医者はいないという。
次第に薄暗くなって来た河辺から離れ、街へと向かって少し進んだ時。
前方から、派手な赤い袍を纏った若者が、優雅な物腰でこちらに歩いて来た。
仮病の為に、公然と龍家の病床で臥せっている筈の榜眼様・史明だ。
鳳翔達に近付いて来ると、毛ほども悪びれずに彼が言った。
「遠路御苦労であったのう」
皇太子である鳳翔に臣下としての礼もとらないどころか、まるで目下の者に対するような口ぶりで労いの言葉をかけた史明に、鳳翔がブチ切れた。
「きさま、ここで何をしている! 病でないのなら、さっさと参朝して働け! 働いてもいない奴に与える禄などない!」
「おお。まるで、鳳翔皇太子のような口ぶりだのう」
皇太子の激憤に全く応えていない史明が、彼を揶揄しながらも提案する。
「我はこの先の南陽酒家に、麗宝達全員の宿を既に確保してある。 嫌ならば無理強いはせぬが、麗宝だけはそこへ連れて行くゆえ」
医者も宿の近くにあるからと言う史明に対して、腸が煮え繰り返りながらも、かろうじて理性を保った鳳翔が、心の中で呪文を唱える。
(俺は今、李洵だ。 俺は今、李洵だ……)
「俺は今、『李洵』だ。 さっさと宿に案内しろ!」
「勿論かまわぬが、皇太子たるもの、宿代はちゃんと支払うのだぞ」
「俺は李洵だ! 都合のいい時だけ皇太子扱いするな!」
南陽酒家は中央広場に面した、華やかな朱塗りの外門が美しい建物だ。
夕暮れ時の中央広場では、早朝からの市と入れ替わりに様々な催しが繰り広げられており、見物人達で賑わっていた。
史明が広場を横切ろうとすると、以前彼にイカサマを見破られた詐欺師達が、慌てて物影に姿を隠す。
広場の見せ物が珍しいのか、周囲を熱心に見ていた春萌が、ふと鳳翔を呼びとめた。
「あれを見て下さい!」
彼が示した方向には、ゆったりとした白い衣に、長い白髪と髭を垂らして座禅を組んだ、小柄な老人が居た。
「どうした……あ!」
老人は、片手を軽く一本の杖に休めたまま、悠々と体を宙に浮かせていた。
道行く人々が彼を見ながら、感嘆の声を上げる。
老人の前に置かれた喜捨用の籠に、次々と小銭が投げ入れられた。
尊敬の眼差しを向けた春萌が呟く。
「すごいですね。一体どちらの行者様でしょう」
「……見た目だけならば、まるで『白寿仙』そのものだな。もっとも本物の仙人が、こんなところで物乞いをしているわけがないが」
瑠夏が疑わしげに言う。
「どういう仕掛けなのかしら。杖に休めた手には、全く力が入っているようには見えないけれど……」
「まさかあの御老人は、本物の仙人なのでは……?!」
本気でそう呟く春萌の横で、史明が言った。




