武状元・李瑠夏4
「・・・・・・・・・・」
黙したままの恵秀と、彼に視線を据えたままの瑠夏との間に、しばし沈黙が流れた後。
ドサリ。
豪奢な御史部屋の扉の外で、何かが床に落ちる音がした。
瑠夏が立ったまま「ふふん」と、したり顔で恵秀を見下ろす。
「あら、あたしが恵秀にと頼んであげておいた本が、丁度届いたようね」
(・・・・・わざとですね)
恵秀が心の中で舌打ちをした。
少し前から人の気配がすることは、二人とももちろん知っていた。
その人物が恐らく、息をひそめて会話の最後の部分に聞き耳を立てていたことも。
落とした本を慌てて拾い上げる彼に、恵秀が声をかけた。
「どうぞ、お入り下さい」
「しっ、失礼します」
扉を開けて中に入って来たのは、二人の会話を盗み聞きしてしまい、明らかに動揺を隠せないでいる壁勇だった。
「あっ、あの、李御史にこちらの本を届けるようにと頼まれて来たのですが・・・客人がおられるとは存ぜず、失礼をいたしました」
「・・・有難う。ご苦労だったね」
「いえっ」
先程の会話が頭から離れないのか、どこかぎこちない表情で彼が応じる。
壁勇がかしこまったまま、恵秀に本を渡している間。
すぐ横で腕を組んだまま立っていた瑠夏が、「ふうん」と言いながら壁勇をジロジロ眺めると、顔をしかめて言った。
「臭いわね・・・」
「えっ?」
一瞬ドキリとした彼が、つい反射的に自分の袖の臭いを嗅ぐ。
臭いの源が自分で無いと思って安堵した壁勇だったが、瑠夏は視線を彼に固定したまま続けた。
「臭いわ・・・すっごい男臭い! しかもこれって多分、野心家で、自分の出世の為なら、どんなに気に入らない女でも妻に出来るタイプの臭さよね」
雄々(おお)しい壁勇の表情が、たちまち固くなった。
「なっ・・・!何の話しですか、いきなり失礼な!」
実は全くの図星であるのを隠すかのように、壁勇が彼女に抗議する。
腕に自信があるらしい彼が、ムッとして拳に力を入れかけたが、ふと、電流が流れたかのように何かに気付くと、素早く後ろへ飛び退った。
指一つ動かしてはいない瑠夏の視線が、いまだ壁勇の下半身に注がれている。
一見天女のような美女ではあるが、獲物を前にした猛虎のような目付きで彼女が言った。
「ふうん、武芸もそこそこ出来るようね・・・でも青慎と違ってまだ隙があるわ」
彼女が先程何をしようとしていたのかを悟って、背筋にすうっと冷たい汗が流れた壁勇が、改めて身を構えると、助けを求めるがごとくに恵秀に言った。
「そ、それでは李御史、失礼いたします!」
部屋の扉をさっと閉じて、逃げるように外へと出て来た彼は、しばらくすると、先程立ち聞きした恵秀達の会話などすっかり忘れてしまったかのように、ひどく憤慨して呟いた。
「一体何なんだ、あの女は・・・!」
壁勇が去って行くと、再び恵秀に向き直った瑠夏が、愉快そうに彼に言った。
「さあて、あの子はさっきの会話を聞いて、一体どういう行動に出るかしらね。新米とはいえ、仮にも御史がこの話に興味を持たないでいられるわけが無いわ。今度ばかりは覚悟を決めることね、恵秀!」
さっさと自分の言いたいことだけ言い終えると、瑠夏はくるりと踵を返して、しなやかな足どりで御史部屋から去って行った。
残された恵秀は、部屋の中心で一つ、大きな溜息をついていた。
(さて、どうしたものか・・・)
李家の先祖は白華帝の御代、彼の右腕であった李梁山将軍だ。
白華帝が黒鳳凰の呪いを受けてその化身となって以来、李家の当主は代々、彼の素性を隠し保護して来た。
現在の李家当主である長男の至勢ですら、父親が危篤状態になるまで恵秀の正体を知らされなかったのだ。当然至勢もまた、今の瑠夏に秘密を伝えるつもりは毛頭ないはずだ。
瑠夏は女性として、決して口が軽いというわけではない。
だが、もしも瑠夏が恵秀の正体を知ってしまったら、彼女がそれを麗宝に話してしまう可能性は高いと思われた。
己の呪われた運命に麗宝を巻き込むことだけは、何としてでも避けなければならない。
(麗宝・・・!)
恵秀にとっては、現世でただ麗宝の近くに居るだけのことが、こんなにも難しい・・・。
彼はまた一つ深い溜息をもらすと、彼女の姿を思い浮かべるべく、祈るようにその双眸を静かに閉じた。
(続く)




