第十四話 神田の火鉢と、ノルマンディーの暖炉
翌日の朝、小室泰六と和田進一は、白山へ向かった。
前日に聞き込みをした界隈は、春の日差しに包まれていた。軒先には洗濯物が揺れ、道端では子どもたちが遊んでいる。
どこにでもある、穏やかな春の町だった。
しかし、小室の表情は晴れなかった。
「小室さん。昨日の話ですが、やはり気になりますか」
「葬儀のことかね」
「はい。近所の人たちは、三年前にご主人が亡くなったことは知っている。でも、葬儀に出た人がいない。ご遺体を見た人もいない。これは妙です」
「妙だね」
小室は歩きながら答えた。
「人が亡くなれば、葬儀がある。身内だけで済ませることもあるだろう。しかし、誰も見ていないというのは、どういうことだろうね」
「奥さんが、病気で亡くなったと話していたのでしょう?」
「そう聞いている。だが、病気で亡くなったという話と、実際に亡くなったことを確かめたという話は違う」
和田は足を止めた。
「つまり、ご主人は本当に亡くなったのか。それさえ、まだ確かではないということですか」
「いや。昨日の依頼人の話では、父親が亡くなったと母親から聞かされている。そこを疑う理由はない。だが、亡くなった後に何があったのか。それを調べる必要がある」
小室は、屋敷の方を見た。
「そして、もう一つ」
「何でしょう」
「息子さんが姿を消した時期だ。父親が亡くなったとされる時期と、ほとんど重なっている」
「偶然ではないかもしれませんね」
「だからといって、息子さんが父親を殺したと決めつけてはいけない。私たちの仕事は、結論を急ぐことではないよ」
和田はうなずいた。
二人は、屋敷の門をくぐった。
娘は、二人を玄関で迎えた。
「お待ちしておりました」
「昨日は、ありがとうございました。弟さんとお話しすることができましたか」
「はい。昨夜、弟から手紙が届きました。今日、こちらに来るそうです」
娘は、少し不安そうに答えた。
「小室さん。父は、本当に亡くなっているのでしょうか」
「それを確かめに参りました」
小室は、静かに言った。
「一つ、お尋ねしてもよろしいですか。お父上が亡くなったとき、あなたはどちらにいらっしゃいましたか」
「私は、母の親戚の家におりました。母が具合を悪くしたので、数日、そちらに泊まっていたのです。戻ってきたときには、父は亡くなったと聞かされました」
「お父上のお顔は?」
「見ておりません。母から、病気で亡くなったと聞かされただけです」
「お葬式には?」
娘は、目を伏せた。
「母は、身内だけで済ませたと言っていました。私は、父が亡くなったことが悲しくて、詳しいことを聞けなかったのです」
小室はうなずいた。
「では、お母上は、どちらのお寺で葬儀をされたとおっしゃっていましたか」
「そこまでは……。お墓は、以前からお世話になっているお寺にあります」
「そのお寺の名前を教えていただけますか」
娘が寺の名を告げると、小室は和田に目配せした。
「和田くん。あとで確認してみよう」
「はい」
そのとき、門の外から足音が聞こえた。
「姉さん」
振り向くと、一人の男が立っていた。
昨日、小室たちが訪ねた弟だった。
娘は、弟の顔を見つめた。
「来てくれたのね」
「うん」
男は、姉の前で深く頭を下げた。
「今まで、黙っていてごめん」
姉は何も言わなかった。
小室は、二人の間に流れる時間を遮らないよう、少し離れて待っていた。
やがて男が顔を上げると、小室は言った。
「それでは、蔵を拝見させていただきましょう」
蔵の扉には、古い錠前が掛かっていた。
弟が懐から取り出した鍵を差し込む。
カチリ。
錠前が外れた。
扉を押すと、長い間閉ざされていた空気が、ゆっくりと外へ流れ出した。
和田は灯りを掲げた。
蔵の中には、古い家具や道具が積まれていた。壁際には木箱が並び、奥には大きな行李が置かれている。
「お父上の持ち物でしょうか」
和田が尋ねた。
「はい。商売に使っていた道具や、書類などです」
弟が答えた。
小室は、すぐには奥へ進まなかった。
入口の敷居を見つめている。
「和田くん。ここを見てくれないか」
「敷居ですか」
「この辺りだけ、木が擦れている。何度も重いものを動かした跡のようだ」
和田はしゃがみ込んだ。
「確かに、ほかの場所より傷んでいますね」
小室は、床に目を移した。
「そして、この辺りだ。埃の積もり方が違う」
奥の行李の前には、床板の一部に不自然な擦り傷があった。
弟は、その場所を見つめたまま動かなかった。
「ここに、何かあるのですね」
小室が尋ねると、弟は小さくうなずいた。
「はい」
彼は行李の蓋に手を掛けた。
「母が、ここに隠しました」
蓋が開く。
中には古い布が幾重にも重ねられていた。
その下に、人の遺骨があった。
娘は息を呑んだ。
和田は灯りを少し離し、静かに頭を下げた。
小室は、遺骨のそばに置かれた着物を見た。
「これは、お父上のものですか」
「はい。間違いありません」
弟は、震える声で答えた。
「母が、父の着物と一緒に、ここへ隠したのです」
娘は、弟を見た。
「お父さんは……ここにいたの?」
弟はうなずいた。
「三年間、ずっと」
娘は、行李の前に膝をついた。
「お母さんは、どうして……」
「姉さん。話すよ。全部」
弟は、深く息を吸った。
「僕が、父を殺したんだ」
蔵の外へ出た三人は、庭の縁側に腰を下ろした。
娘は、まだ弟の言葉を受け止めきれない様子だった。
小室は、弟に尋ねた。
「お父上が亡くなった日のことを、順を追って話してください」
弟は、しばらく黙っていた。
「父は、昔から母にひどい仕打ちをしていました。商売がうまくいかないと母を責め、酒を飲んでは怒鳴り、手を上げることもありました」
和田は、黙って聞いていた。
「僕は何度も止めました。でも、父は聞いてくれなかった。母は、いつも僕に、余計なことをしないでと言いました。僕が父に逆らえば、今度は母がもっとひどい目に遭うからです」
「それで、あなたは家を出たのですか」
小室が尋ねた。
「いいえ。母を置いて出ていくことはできませんでした」
弟は、両手を握りしめた。
「三年前のあの日も、父は母を殴っていました。母が倒れても、父はやめなかった。僕は父を引き離そうとしました」
「そのとき、何が起きたのですか」
「父は僕に向かってきました。母を守ろうとして、僕は近くにあった鉄の火掻き棒を手に取りました。父が母に手を伸ばしたので、僕は……」
弟の声が途切れた。
「父の頭を、殴ってしまったんです」
娘は、顔を覆った。
「お父さんが倒れて、動かなくなった。僕は、どうしていいか分からなかった。母が駆け寄って、父の名前を呼んでいました。でも、父はもう……」
「それで、お母上は?」
「母は僕に、逃げなさいと言いました。警察に知られれば、お前は捕まる。もう戻ってくるな、と」
弟は、目を閉じた。
「僕は逃げたくありませんでした。でも母は、父が生きていた頃から、僕が家を出ることを何より恐れていた。父のことを誰かに話せば、母まで責められると思っていたのでしょう」
「お母上は、遺体を蔵に運んだのですね」
小室の問いに、弟はうなずいた。
「僕も手伝いました。母は、父の着物を着せ、蔵の行李に納めました。父が病気で亡くなったことにして、近所の人には身内だけで葬儀を済ませたと話したそうです」
「お寺には?」
「母は、お寺にも何も知らせていません。父の位牌も、母が自分で用意したものです」
娘は、弟を見つめた。
「じゃあ、お母さんは、ずっと……」
「はい。父が亡くなったことを誰にも知られないようにして、僕を守ろうとしていたんです」
小室は、静かに尋ねた。
「お母上は、あなたに何か言い残しましたか」
「母が亡くなる前、僕に手紙を渡しました。姉さんには、いつか本当のことを話してほしい、と。けれど、母が亡くなってからも、僕にはその勇気がありませんでした」
「それで、三年経った今になって手紙を出したのですね」
弟はうなずいた。
「母の命日が近づいていました。いつまでも隠していてはいけないと思ったんです」
小室は、少し間を置いてから尋ねた。
「では、依頼人のところへ届いた手紙について伺いましょう。あれは、お父上の筆跡でしたね」
「はい。父の古い帳面を見ながら、僕が書きました」
娘は驚いて弟を見た。
「あなたが?」
「姉さんに、僕からの手紙だと分からせたくなかったんです。父の字なら、蔵を開けてはいけないという言葉を、母の言いつけだと思ってくれるかもしれない。そう考えました」
小室は、娘の方を向いた。
「お手紙を拝見したとき、あなたはお父上の字だとおっしゃいましたね」
「はい。間違いないと思いました」
「確かに、よく似せてあります。しかし、字の形は似ていても、筆の運びには違いが出るものです。特に、書き慣れた人の字は、迷いなく筆が動く。あの手紙には、ところどころに筆を止めた跡がありました」
「小室さんは、それで弟だと?」
「それだけではありません。封筒の宛名も、手紙の本文も、同じ人が書いたものです。しかし、本文だけはお父上の字に似せようとしている。つまり、誰かが意図して筆跡を真似たのではないかと考えました」
小室は弟を見た。
「あなたは、お姉さんに蔵を開けてほしかった。けれど、自分の名前で手紙を出すことはできなかった。そこで、お父上の筆跡を使ったのですね」
「はい」
弟は、うつむいた。
「姉さんに、父が亡くなった場所を見てほしかったんです。母が守ろうとした秘密を、僕だけで抱え続けるのは、もう限界でした」
和田は、小室に尋ねた。
「しかし、小室さん。お母さんは、なぜ三年間も蔵を開けさせなかったのでしょう」
「母親として、息子を守りたかったのだろう。だが、もう一つ理由がある」
小室は、蔵の方を見た。
「蔵を開ければ、父親の死が明らかになる。息子が家を出た理由も、近所に知られる。母親は、息子を守るために、父親の死そのものを隠したのだ」
「でも、そのために娘さんにも真実を知らせなかった」
「そうだ。娘さんには、父親は病気で亡くなったと伝えた。息子さんには、家を出て生きるように言った。母親は、二人を守ろうとしたのかもしれない。しかし、その沈黙が、二人を長い間苦しめることになった」
娘は、庭に目を向けた。
「お母さんは、最後まで私に何も言わなかったのね」
弟は、答えられなかった。
小室は続けた。
「もう一つ、確認しなければならないことがあります。お父上の死について、私たちだけで判断することはできません。遺骨の状態を調べ、当時の状況を明らかにする必要があります。役所にも届け出なければなりません」
弟は、うなずいた。
「分かっています。僕がやったことです。逃げるつもりはありません」
「それでよろしい」
小室は、穏やかに言った。
「あなたが母親を守ろうとしたことと、人を殺めたことは、別々に考えなければならない。事情があったからといって、亡くなった人の命が戻るわけではありません。しかし、何があったのかを明らかにすることは、残された人たちにとっても必要なことです」
和田は、娘と弟を見た。
「お二人で、これから話し合ってください。お母さんのことも、お父さんのことも」
娘は、弟の手を取った。
「どうして、ひとりで苦しんでいたの……」
弟は、姉の手を握り返した。
「ごめん」
「謝らなくていい、とは言えないわ。でも、もうひとりで抱えないで。お母さんが守ろうとしたあなたの人生を、これからどうするか、一緒に考えましょう」
弟は、うなだれた。
その肩が、小さく震えていた。
屋敷を出ると、庭の桜が満開だった。
枝いっぱいに花をつけた桜は、春の風に揺れている。
しだれ桜の枝先は、地面に届きそうなほど垂れ下がり、淡い花びらが光を受けていた。
「小室さん」
和田が声をかけた。
「あの桜、何も語りませんね」
小室は、しばらく桜を見上げていた。
「そうだな」
枝から、花びらが一枚落ちた。
「何も、桜は語らない」
二人は、屋敷を後にした。
その日の夕方。
小室と和田は、神田の事務所へ戻っていた。
窓の外には、春の夕暮れが広がっている。
事件の報告を済ませ、机の上には書き留めた記録が置かれていた。
和田は、火鉢の前にしゃがみ込んだ。
炭は、まだ赤く残っている。
火箸でそっと位置を整え、五徳の上に鉄瓶を載せた。
「小室さん、少し冷えてきましたね」
「ああ。春とはいえ、日が暮れると寒い」
小室は椅子に腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
やがて、小室が口を開いた。
「人間というのは、難しいものだな」
「今日の事件ですか」
「そうだ。誰かを守ろうとして、別の誰かを傷つけてしまうことがある。守ろうとした人間も、守られた人間も、長い間、苦しむことになる」
「お母さんは、息子さんを守りたかったのでしょうね」
「そうだろう。しかし、秘密を抱えたままでは、残された者も救われない」
和田は、鉄瓶から湯を注いだ。
「お茶をどうぞ」
「ありがとう」
小室は湯呑みを受け取った。
火鉢の炭が、静かに赤く光っている。
その赤い光を見つめながら、小室はふと思い出したように言った。
「和田くん。酒はあるかね」
「ありますが……」
「少しだけ、付き合わないか」
「またですか、小室さん」
「麦焼酎だよ。ほんの少し」
「その『ほんの少し』が、いつも信用できないんです」
小室は笑った。
和田は仕方なく、小さな徳利と盃を用意した。
小室は、盃を一口傾けた。
「うん。うまい」
「お茶も飲んでくださいよ」
「分かっている」
そう言いながら、小室はもう一口飲んだ。
和田は、火鉢の炭を整えた。
赤い炭が、かすかに光を強める。
しばらくして、小室の返事がなくなった。
「小室さん?」
見ると、小室は椅子にもたれ、目を閉じていた。
「小室さん。寝てしまったんですか」
返事はない。
和田は苦笑した。
「まったく……」
押し入れから毛布を取り出し、小室の肩にそっと掛ける。
窓の外では、夜が深まり始めていた。
火鉢の炭は、静かに燃え続けている。
パチッ。
パチパチッ。
薪のはぜる音が聞こえた。
ホームズは、ゆっくりと目を開いた。
目の前には、赤い炎があった。
薪が暖炉の中で燃え、揺れる光が石造りの壁に影をつくっている。
煙の匂い。
乾いた木の匂い。
そして、身体を包む暖かさ。
「……ここは?」
ホームズは、かすれた声で尋ねた。
「気がついたか、ホームズ!」
そばにいたワトソンが、椅子から立ち上がった。
「ワトソン……」
「まったく、心配させるな。森の中で倒れている君を見つけたときは、どうなることかと思ったぞ」
「森……」
ホームズは眉を寄せた。
「そうだ。君は大きな犬を追って森の奥へ入っていった。しばらくして、村人たちが君を見つけてくれたんだ。私たちで宿まで運んだ」
「犬は?」
「見失った。君が倒れていた場所には、争った跡があったそうだ」
ホームズは、ゆっくりと上半身を起こした。
頭に痛みが走る。
「無理をするな!」
ワトソンが肩を支えた。
「エレノアは?」
「隣の部屋にいる。君が目を覚ましたら知らせることになっている」
ホームズは、暖炉の炎を見つめた。
薪が一本、崩れた。
パチッ。
小さな火の粉が舞い上がり、すぐに消えた。
「……暖かいな」
「何を言っている。君はずいぶん長い間、森の中にいたんだぞ」
ワトソンは呆れたように言った。
ホームズは、もう一度、炎を見た。
ふと、別の光景が脳裏をよぎった。
赤く光る炭。
小さな火鉢。
その向こうに座る、ひとりの男。
そして、満開の桜。
「神田の……」
「何だって?」
ワトソンが聞き返した。
「いや、何でもない」
ホームズは、目を閉じた。
暖炉の薪が、また音を立てた。
パチパチッ。
遠い異国の、どこか懐かしい火の音のようだった。
人は、暗闇を恐れる。
だから火を灯す。
火は、夜を照らす。
食べ物を料理する。
寒さから人を守る。
そして、人はその周りに集まり、語り、食べ、眠る。
神田の火鉢も、ノルマンディーの暖炉も。
炭と薪。
火鉢と暖炉。
時代も、場所も違う。
それでも、人の暮らしの中には、いつも炎があった。
神田では、炭火が静かに燃えている。
ノルマンディーでは、薪がパチパチとはぜている。
二つの炎は、遠く離れた場所で、同じ夜を照らしていた。




