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これらを言われると、私は何も言い返せなくなる。
確かに、彼が私に触れている間、私の体の奥底からドロドロとした重たい泥のようなものが、彼の体温を通して外へと吸い出されていくような、不思議な感覚があるのは事実だった。
論理的には、彼の言う通り「治療」なのだ。
それらの言葉を盾に、彼は一切の躊躇なく私に甘い触れ合いを重ねてくる。
(ううう……っ! うぶな私を弄んで楽しいんでいる!? もう耐えられない! 気恥ずかしくて死んでしまいそうよ!!)
私は自分の胸をキュッと叩いた。
生まれてから十年間、異性と手を繋いだことすら父親との一度きりだったのだ。それが急に、連日のようにハグされ、腰を抱かれ、指を絡められ、耳元で愛を囁かれているのだ。
私の恋愛耐性値がゼロだとしたら、現在のダメージ量は測定不能のオーバーフロー状態である。
だが、何よりも私を狂わせたのは、セルウィウス様の「やり口」だった。
彼はただ闇雲に、野蛮に触れてくるわけではないのだ。
彼は恐ろしいほどに「ロマンチックな演出」というものを完璧に理解していた。
例えば、夕暮れ時。
白銀の大樹の葉が、茜色の夕日に染まる時刻。
彼に誘われて庭園のテラスに出ると、そこにはいつの間にか幻想的な光を放つ魔法の花々が敷き詰められ、星屑のような光の粒子が空中を舞っていた。
「少し冷えてきたな」
彼はおもむろに自分の上着を脱ぐと、私の肩に優しくかけてくれた。
そして、照れくさそうにする私をそっと引き寄せ、テラスの欄干に背を預けながら、二人で沈みゆく美しい夕日を眺めるのだ。
言葉は多くない。
ただ、静かな風の音と、彼の包み込むような温もりだけがそこにある。
彼が私を見る目は、まるで世界で一番大切な宝物を見つめるかのように、どこまでも深く、優しい。
(な、何なの……何なのよこの人は……っ!)
私は自分の顔が爆発しそうなほど熱くなるのを感じながら、心の中で頭を抱えた。
経験のない私にとって、恋愛の知識のすべては「書物」からだった。
幼い頃から自室に引きこもり、擦り切れるほど読み返した古い神話の甘い恋物語。
あるいは、吟遊詩人が歌う『恋の叙事詩』。
英雄が可憐な姫君を救い出し、星空の下で永遠の愛を誓う——。
月光の下、花々が咲き乱れる庭園で、二人が静かに手を取り合う——。
(これ……完全に書物に出てくる『叙事詩の英雄』そのものじゃない!!)
そう、セルウィウス様の振る舞いは、まさに私が本の中で読んで「こんなロマンチックな世界、現実にあるわけがないわ」とため息をついていた、あの甘く幻想的な叙事詩の世界そのものだったのだ。
夕暮れの演出も、言葉の紡ぎ方も、触れ合う時の指先の繊細さも。
全てが物語の中の英雄のように完璧で、格好良すぎて、ロマンチックが過剰供給されている。
(普通なの!? これって人間界(というか始化の世界)では普通の接し方なの!? それとも私が世間知らずなだけで、大人の恋愛って全部こういう叙事詩みたいな感じなのかしら!?)
見当がつかない。
なにせ比較対象がいないのだ。
私の知っている男といえば、私を見て泡を吹いて倒れた元・婚約者のルキウスか、命乞いをして逃げ出した衛兵たちだけである。
まともな異性との交流がセルウィウス様一人しかいないため、私は「これが世間の普通なのか、彼が異常にロマンチストなのか」すら判断できずにいた。
「どうした、レティシア。顔が赤いぞ。……やはり、熱でもあるのか?」
セルウィウス様が心配そうに顔を覗き込んできた。
そして、彼の手がすっと伸びてきて、私の額に自分の額をこつんと重ね合わせた。
「ひゃいっ!?」
おでことおでこが触れ合う。
息ができる距離ではない。彼の群青色の瞳が、私の目をまっすぐに見つめている。あまりの美貌に、息が止まりそうになる。
「熱はないな。……だが、少し心拍数が早い。やはり呪いの影響で体が重いのかもしれん」
「ち、違いますわよ! あなたのせいですわよ!!」
私はたまらず彼のお腹(カチカチに鍛え上げられていて全く効かなかったが)をぽかぽかと拳で叩いた。
「私のせいにされても困るな。私はただ、君の解呪のために真摯に向き合っているだけだぞ」
「真摯のベクトルがおかしいと言っているのです! おでこをくっつける必要がどこにありますの!?」
「ああ、額は魔力の巡りが集中する場所だからな。ここから吸い出すのが一番効率がいい」
「絶対いま思いついた嘘ですわよね!? 私は騙されませんわよ!」
私がキーキーと怒鳴ると、セルウィウス様はまたしても「フッ……」と満足そうに口角を上げた。
そして、私の小さな拳をそっと両手で包み込み、そのまま自分の胸元へと引き寄せた。
ドックン、ドックン、と。
彼の胸から、力強く、落ち着いた鼓動が手に伝わってくる。
「……嘘ではないさ。だが、君がそうして元気よく怒っている姿を見るのが、私が好きだというのも事実だがな」
「〜〜〜〜っっっ!!」
まただ。
またこの人は、何でもないような顔で殺し文句を投下してくる。
「ずるい……ずるいですわ、セルウィウス様……」
私は真っ赤になった顔を隠すように、彼の胸元に額を押し付けた。
「何がずるいのだ?」
「全部ですわ! 言動も、行動も、顔が良いところも……全部ずるいですわ!」
「すべて生まれつきだからな。褒め言葉として受け取っておこう」
「褒めてません!!」
私の叫び声が、夕暮れの庭園に虚しく響く。
彼の胸からは、クスクスと愉しげに揺れる振動が伝わってきた。
(ああ……もうダメ。私、絶対にこの人に人生を握られているわ……)
「解呪」という名目の、甘く恐ろしい共同生活。
毎日のように繰り広げられる、神話のようなロマンチックな演出と、容赦ない密着行為。
これが本当に解呪になっているのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、悪魔の呪いが解ける前に、私の心臓が爆発して死んでしまうかもしれないということだけだった。
私はセルウィウス様の胸の中で、真っ赤な顔のまま、深々とため息をつくのだった。
──
その日の夜。
私は自分の部屋の、ふかふかの巨大な葉っぱのベッドの上で、一人で右へ左へとゴロゴロと転げ回っていた。
「あーもう! おかしい! 絶対におかしいわ!」
枕に顔を押し付け、くぐもった声で叫ぶ。
解呪のため。治療のため。浄化の儀式。
言い訳はいくらでも用意されている。だが、あのロマンチックすぎる演出の数々は一体何なのか。
手を取ってのエスコート、バックハグでの弓の指導、額への誓いのキス。
私が今まで本の中でしか読んだことのない、甘く切ない恋の叙事詩の英雄たちと全く同じ行動を、彼は平然とやってのけるのだ。
「(わからない……私には、これが普通なのかどうかすら、見当がつかないのよ!)」
私はベッドの上に仰向けになり、天井の葉脈をぼんやりと見つめた。
もし私が、普通の公爵令嬢として社交界でドロドロに揉まれ、数々の男性と浮き名を流してきた経験豊かな女性であったなら、「あら、随分と手慣れていらっしゃるのね。遊び人なのかしら?」と鼻で笑ってあしらうこともできただろう。
あるいは、「これは単なるスキンシップで、恋愛感情ではないわ」と冷静に分析できたかもしれない。
だが、悲しいかな。
私には「異性との普通の接し方」のデータが完全に欠落しているのだ。
今まで「恐怖の化け物」として生きてきた私にとって、男性の基準は「私を見て泡を吹きながら白目を剥いて倒れるか、失禁しながら逃げ出すか」の二択しかなかった。
だから、セルウィウス様のこのロマンチックすぎる行動が、
『婚約者に対しての一般的な愛情表現』なのか、
『始化という種族特有のスキンシップの激しさ』なのか、
それとも『本当にただ解呪のために仕方なく劇的な演出を取り入れているだけ』なのか、全く判断がつかないのである。
「……でも、あの瞳は」
ふと、私の唇の端を撫でた彼の指先の感触と、あの熱を帯びた群青色の瞳を思い出す。
『君の反応が良いから、つい構いたくなる』
『君に惚れている』
その言葉を思い出すだけで、またしても顔にドッと血が集まり、心臓がトクトクと早く脈打ち始めるのが分かった。
「だめよ、レティシア。勘違いしてはだめ。相手は神の領域に住まう、原初の獣にして大陸最強の剣聖様よ。私のような、呪われた行き遅れの令嬢を本気で愛してくれるはずがないじゃない……」
自分に言い聞かせるように呟く。
彼はきっと、長い長い寿命を持て余していて、珍しい呪いにかかった私の存在が、ただの『面白いおもちゃ』に見えているだけなのだ。
いつか呪いが完全に解けたら、きっと彼は私への興味を失い、「では、達者でな」と人間界へポイっと帰してしまうに違いない。
そう思わなければ、理性が保てない。
彼が本当に私を愛してくれているなどと信じてしまったら、もしそれが勘違いだった時のショックで、今度こそ私の精神が砕け散ってしまう。
「……早く呪いを解いて、普通の生活に戻るのよ。そのためには、多少の猥褻……いえ、過剰なスキンシップも我慢しなきゃ」
私は両手でパチン、と自分の頬を叩き、気合を入れた。
「ええ、我慢するわ。どんなに甘い言葉を囁かれようと、どんなにロマンチックなシチュエーションに持ち込まれようと、絶対に心を乱されないようにするんだから!」
決意を胸に、私は目を閉じた。
しかし、その固い決意とは裏腹に、私の脳裏にはセルウィウス様の悪戯っぽい微笑みがいつまでもこびりついて離れず、その夜はなかなか寝付くことができなかった。
──
そして翌朝。
「おはよう、レティシア。よく眠れたか? 目覚めの挨拶だ」
「ひゃんっ!? なぜ寝起きのベッドに潜り込んでくるんですかーっ!!」
「寝起きが一番、呪いの腐敗が進む時だからな。当然だろう。昨日の治療が無駄になってしまう」
「……うぐっ、またそれっぽい事を」
「事実だ。諦めろ」
私の悲痛な叫び声が、神の領域の朝の空に響き渡る。
私の「心を乱されない」という決意は、朝日が昇ると同時に、いとも容易く粉砕されることとなるのだった。
呪いが解けるのが先か、私の心臓が爆発して死ぬのが先か。
命がけのチキンレースは、まだまだ終わる気配を見せなかった。




