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あの狂乱の夜会から、そしてこの神の領域に連れて来られてから、早二週間が経過していた。
最初は「拉致だ! 監禁だ! 変態剣聖だ!」と脳内で大騒ぎしていた私だったが、人間の慣れとは本当に恐ろしいものである。あるいは、セルウィウス様の手練手管——もとい、洗練されすぎたロマンチックな攻勢に、私の脳が完全に麻痺してしまったと言うべきか。
今や、私の朝は非常に甘く、そして心臓に悪い「儀式」から始まるのが日常となっていた。
ふわ、と意識が浮上する。
柔らかな真珠色の光が、巨大な大樹の部屋を満たしている。まだ半分夢の中にいるような私の頭に、大きくて温かな手がそっと添えられた。
「おはよう、レティシア。今日も愛らしい寝顔だったぞ」
耳元で響く、低く甘いバリトンボイス。
同時に、指先で私の金糸の髪が優しく梳かされ、そのまま愛おしむように頭を撫でられる。そして間髪入れずに、私の額にチュッ、と温かい唇が押し当てられた。
「っ〜〜〜〜っ!?」
目覚まし時計としては、あまりにも刺激が強すぎる。
二週間も毎朝これを繰り返されているのだから、そろそろ「もう、セルウィウス様ったら朝から意地悪ですわ」なんて優雅に微笑んで受け流す術を覚えてもいいはずだった。
だが、根が筋金入りの「うぶ」である私に、そんな芸当ができるはずもない。
私は表面的には「ええ、おはようございます、セルウィウス様」と完璧な淑女の顔を装って平然を演じていた。演じてはいたのだが——内心では心臓が早警報を鳴らし、全身の血が頭に上って大パニックを起こしていたのだ。
その動揺のせいだった。
「さ、さあ、今日も素晴らしい朝ですわね! さっさと起きて朝食を……」
平然を装いながら素早くベッドから起き上がろうとした瞬間、動揺で目尺を誤った私の頭が、白亜の大樹のフレームに盛大に激突した。
——ゴツンッ!!
「いたぁぁぁっ!?」
あまりの激痛に、私は両手で頭を押さえてベッドの上にのたうち回った。淑女の体面も何もあったものではない。涙目で「痛い痛い痛い!」と悶絶する私を、セルウィウス様は少し驚いたように見つめ、次の瞬間にはやれやれと苦笑した。
「全く、君という人は朝から賑やかだな。動くな」
彼がそっと私の頭に手をかざすと、その手から淡いエメラルドグリーンの光が溢れ出した。
次の瞬間、頭を襲っていた激しい痛みが、冷たい水で冷やされたかのように一瞬で引き引いていく。たんこぶすら残っていない。完璧な治癒魔法だ。
「……あ、治った」
私は押さえていた手を離し、自分の頭をさすった。痛みは綺麗さっぱり消え去っている。
「……ありがとうございます、セルウィウス様。お手数をおかけしましたわ」
気恥ずかしさのあまり、私は小さな声でお礼を言った。顔が赤くなっているのは、頭をぶつけた痛みのせいだということに私の中で決定した。
セルウィウス様は私の頭をもう一度ポンポンと優しく撫でると、その群青色の瞳をすっと細め、思いがけない言葉を口にした。
「礼には及ばん。……さて、レティシア。二週間ほど私の力で直接的な浄化を続けてきたが、君の体に纏い付いていたあの悪魔の呪いも、だいぶ弱まってきた」
「えっ? 本当ですか!?」
私は思わず身を乗り出した。
確かに、ここ最近は体が驚くほど軽く、以前のような重苦しい感覚が消えていた。何より、彼の肌に触れられても、ドロドロとした不快な魔力が引き抜かれる感触が少なくなっていたのだ。
「ああ。そこでだ……今日は一度王都に戻って、『実地テスト』を行おうと思う」
「……はい?」
実地テスト? 王都に、戻る?
あまりにも唐突すぎる単語の羅列に、私の思考がフリーズした。
「え、ちょっと待ってくださいませ、セルウィウス様! 実地テストって何ですの? 戻るって、あの王都にですか!?」
困惑と驚きを隠せない私に対し、セルウィウス様は答える代わりに、どこか楽しげに口角を上げた。
そして、ベッドの上で呆然とする私に向かってすっと腕を伸ばすと、なんの脈絡もなく、ひょいっと私を抱き上げたのだ。
いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢である。
「きゃっ!? な、なにを……っ!?」
「話は移動しながらしよう。準備はできている」
「できていませんわ! そそくさと連れて行かないでください! せめて顔を洗わせて、朝食を食べさせてからにしてくださいませ!」
私は彼の胸の中でジタバタと暴れた。寝起きで髪も整っていないし、顔も洗っていない。公爵令嬢として、そんな惨めな姿で外出するなど断じて許されないのだ。
しかし、セルウィウス様は私をしっかりと抱え直すと、大樹の部屋の扉を颯爽と出て行きながら平然と言い放った。
「顔を洗うのも、食事を食べるのも、王都に着いてからやればいい。久しぶりに人間の街で、一緒に美味しいものでも食べよう」
「は、はい……?」
「君も、ここにずっと閉じ込められていたら気分が滅入るだろう? たまには羽伸ばしも必要だ」
耳を疑った。
彼を見上げる。その群青色の瞳には、私を気遣う優しさと温もりが宿っていた。
「……街へ、返してくださるのですか?」
私はぽつりと呟いた。
「ん? 何を当たり前のことを言っているのだ」
「いえ……だって、正直なところ、私……このまま二度と人間の世界に帰れないのではないかと、少しだけ思っていましたから」
それが私の本音だった。
ここは神の領域だ。人間など足を踏み入れることすら叶わない伝説の場所。そこに連れて来られ、大陸最強の剣聖(しかも人間ではない始化の当主)に「婚約者だ」と宣言され、甘い生活を強いられていたのだ。
このまま外の世界から隔絶され、彼の「愛玩動物」として一生ここで暮らすことになるのではないかという不安が、胸のどこかにずっと引っかかっていた。
私の言葉を聞いたセルウィウス様は、足を止め、少しだけ呆れたように私を見下ろした。
「……君は、私のことを一体何だと思っているのだ? 私は、そんなイカれた天使や悪魔のような真似はしないぞ」
「悪魔は分かりますけれど……天使もそんなことするのですか?」
私が素朴な疑問を口にすると、セルウィウス様は歩みを再開させながら苦笑した。
「もちろん、全員が全員とは言わん。だが、奴らの中に存在する過激派の連中は質が悪い。気に入った人間を見つければ『神の御心』などと宣って聖域に拉致し、魂を去勢して一生囲い込むような真似を平気でやる。私に言わせれば、悪魔より性質が悪い」
「うわぁ……天使って、聖書に書いてあるよりずっと恐ろしい存在なんですのね……」
おとぎ話の夢がガラガラと崩れ去る音を聞きながら、私はセルウィウス様の胸に身を寄せた。とりあえず、彼がその「イカれた天使達」と同類ではなかったことに、心底ホッとした。
大樹の巨大な玄関を抜け、私たちは外の景色へと躍り出た。
光り輝く白亜の大樹の足元。澄み切った空気が肌を撫でる。
セルウィウス様は、私を抱いていた腕を緩め、優しく地面へと降ろしてくれた。足がしっかりと大地に着く感覚に、私は小さく息を吐いた。
「さて……」
私はドレスの裾を少し整えると、あたりを見回して首を傾げた。
周囲には、あの見事な白亜の大樹と、美しい楽園のような泉や花々が広がっている。だが、その向こうには、私が迷い込んだ「あの不気味で黒い森」が鬱蒼と生い茂っていた。
「で……結局、どうやってこのイカれた神の森から出るのですか、セルウィウス様? 行きは馬車で一瞬でしたけれど、自力で出ようとしたら同じ場所をループして酷い目に遭いましたわ」
私の問いに、セルウィウス様はフッ、と不敵に笑った。




